ある日、マンガ家が落ちていて
「ほんとです。ルナが心変わりしそうになる男性キャラ、ほとんどできあがったんです。今から時間もらえれば、すぐにネーム切れます」
「本当でしょうね。じゃあ、ネカフェで、今、描いてください。僕、側にいますんで」
 編集者の言葉にゆるみはなかった。笹岡がネームを切らない限り、離れる気がない。それは部外者であるあゆみにもわかった。
 笹岡が、困った顔をしてあゆみを見た。笹岡の気持を察してあゆみは言った。
「笹岡先生。私のことなら気にしないでください。今日は、楽しかったです。ありがとうございました」
 あゆみは、深く頭を下げた。足元の地面を見ながら心の中で「夢の時間は終わるんだな」と、思った。
「こちらこそ、あの…」
 笹岡が口をぱくぱくさせる。
「ありがとう、ござい、ました」
 それだけやっと言うと、編集者に引っ張られて、ネカフェへ入ってしまった。自動ドアが閉まってしまうと、もう笹岡の後ろ姿すら見えない。
 それでもしばらくは、じっとネカフェの店先をあゆみは見ていた。
 ちょっとした時間が過ぎて踏ん切りがついた。アパートへ帰る途中、あっ、と言って立ち止まった。
「コミックスにサイン、もらえなかった…」
 
 一週間後。あゆみはうきうきとした気分で、酒屋でビールを見繕っていた。今日、蜂谷婦人のところに行って、リベンジを果たすことができたのだ。あゆみが選んで持って行った初夏向けの洋服のほとんどを、蜂谷婦人は気に入ってくれた。
「急に私の好みがわかるようになったのね。どうして?」
 蜂谷婦人から、不思議そうに言われた。
「すごい仕事をしている方と知り合って、私の悪い思い込みを解いてくださったんです。ガチガチに固くなっていた頭をほぐしてもらったというか…」
 ふーん、と蜂谷婦人は呟いて、にやっと笑った。
「頭だけじゃなくて、心もほぐしてもらったんじゃないの?」
「え、あ、はあ」
「隠したってわかるわよ。その人、男の人でしょう。惚れちゃった?」
 あゆみは、リラックスしていたのに、がち、と固まってしまった。
「めめめ、滅相もない!私とは、住む世界が違う人ですから」
 手をぶんぶん振って否定した。顔がいつの間にか赤くなっている。もう、どうしちゃったの、私ったら!
 自分を制御するのにいっぱいいっぱいになっていると、蜂谷婦人が言った。
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