ある日、マンガ家が落ちていて
 そうなのだ。自分でも、なんでさっさとサインをもらわなかったのだろうと思う。胸の内で何度も繰り返す内に、いつの間にか「何で連絡先交換しなかったんだろう」に変わっていた。自分とは住む世界が違う。でもほんの少し交わったところもあった。あの晩、編集者に笹岡を奪われなければ。もっと違った展開があったかもしれないのに…。
 姉ちゃん、メシ、と望に言われて、あゆみはのろのろと台所へ向かった。

 あゆみは、今日、朝イチで上司に呼ばれた。何かポカやったっけ、とびびっていると、上司は、ご機嫌で「ご指名があったぞ」と言ってきた。
「指名…私に、ですか」
 外商部に来て、まだ一ヶ月も経っていない。成績なんてまだまだだ。なのに、なぜ?
「地下でビール売ってた時のファンじゃないか。とにかく外商の大杉さんに来てほしい、って言われたんだよ。このリストもFAXで送られてきた」
 そう言って差し出されたリストを見ると、高級ワインの名前がずらりと並んでいる。売り上げをざっと計算しても、とんでもない高額でくらっとした。
「お客様なんてどうでどうつながるかわからないからなあ。お前を地下から引っ張ってきてよかったよ。ま、早速品物を揃えて、今日中に伺え。八坂様は今日がいいそうだ。リストの商品が全て揃わなくていいから、とにかく今日中になる早で、とのことだったぞ。きっと忙しい方なんだろう」
「わ、わかりました。商品を揃えて、伺います」
 あゆみは、地下の売り場へすっ飛んで行き、勝手知ったる元の職場でさっとリストのワインを揃えた。売り場の男性スタッフに手伝ってもらって、ワインを台車で車に運び、八坂様の御宅まで急いだ。
 ナビの通り運転し、到着した八坂邸の前で、あゆみはぽかん、と口を開けた。これまでもデパートの上得意様の御宅に何度も足を運んでいた。でも、こんなにとんでもなく大きなお屋敷は初めてだった。
 あゆみは、青ざめた。どうしよう、粗相でもしたら大変なことに…!ドキドキしながら、ワインの箱を台車に移そうとする。すると、門が開く気配がした。あ、きっとお手伝いさんだ、とあゆみは笑顔を作り、振り返った。
「お世話になります。東条デパートの大杉と」
 申します、と言いかけて、固まった。そこには、髪の毛がぐしゃぐしゃで、ボロボロのスウェットを着た笹岡が立っていた。
「笹岡さん!」
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