ある日、マンガ家が落ちていて
 思わず、ワインの箱を落としそうになるのを、笹岡が両手で受けてくれた。
「よかった、割れなくて」
 にっこりと笹岡は笑った。あゆみは動揺したまま言った。
「どうしてここに?だってここは八坂さんの御宅で」
「あ、僕、笹岡はペンネームなんです。本名は、八坂二郎です」
「は、はあ…」
 まだ、狐につままれたような気持しかない。あゆみは口を開けたままだ。笹岡は言った。
「あの後、大杉さんに連絡とろうと思ったんですけど、締め切りに追われてて。今朝、やっと原稿が仕上がったんです。ルナの心が揺れる回の。自分でもうまくいってうれしくて、大杉さんに伝えたくて、でも大杉さんの連絡先、知らないし。僕、方向音痴だから、大杉さんのアパートまでの道も怪しくて。それで思いついたんです。外商の客になればいいって。東条デパートの大杉さん。それははっきり覚えてましたから」
 そう言って笹岡は、胸を張った。あゆみは、なんて言ったらいいか、わからず固まっていた。それを見て、笹岡が心配そうな顔をした。
「大杉さん、ごめんなさい、やっぱり、ワインの注文はいけませんでしたか。ビールよりも高価な方がいいかと思ってワインにしたんですが…」
「そ、そんなことないです!高級ワインをこんなにたくさん…!ありがとうございます、上司も大喜びしてました」
「…大杉さんは、嬉しくないんですか?」
 笹岡が、耳のたれた犬のような、悲しそうな顔をして言った。
「う」
 言葉が詰まった。あゆみの涙腺がぶわっと壊れた。
「嬉しくないわけないじゃないですか!もう会えないって思ってたんですからあ!」
 ぼたぼたと涙をこぼしてしまう。笹岡は泣き顔のあゆみにおろおろした。
「な、泣かないで、大杉さん」
 ううっと、あゆみはしゃくりあげ、何とか涙をおさえた。
「笹岡さんは…私に、会いたかったんですか?」
「ええ。とても」
 落ち着いた声で、笹岡は言った。
 笹岡は、スウェットの袖で、あゆみの頬の涙をぬぐってくれた。
「大杉さんが、大好きだから、また会いたかったんです。どんな手を使ってでも」
 あゆみは、また涙が止まらなくなった。涙声で私も、と言うので精一杯だった。
 
  一年後。
「うーん、このワインも美味しい…」
 舌に転がる美味しさに、あゆみは唸った。笹岡の屋敷のリビングにあるソファの上で寛いでいた。
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