天敵御曹司はひたむき秘書を一途な愛で離さない
 秘書になって最初の一週間はとにかく慌ただしく過ぎた。そもそも前任者もいない引き継ぎもないポジションなのだから、なにもかもが手探りだ。
 穂乃果は無我夢中で取り組んだ。
 ——そして金曜日。
「一週間、よく頑張ったな。おつかれさま」
 日が落ちて、ネオンが煌めく夜の街を滑るように走る運転手付きの黒い車の後部座席で、拓巳から穂乃果に労いの言葉がかけられる。
 隣で穂乃果は微笑んだ。
「ありがとうございます。副社長もおつかれさまでした」
 一週間業務だけに集中した結果、ふたりの関係は、固い信頼で結ばれた上司と部下という元の状態に戻っている。
 彼は初日こそ、ふたりの間に起こった出来事に言及したものの、それきりで、後はなにごともなかったように以前のままの態度だった。
 それを、寂しいと感じるのは間違いだと穂乃果は思う。
 あの日の朝、"なかったことにしてほしい"と言ったのは、他でもない自分なのだから。
 彼は穂乃果のお願い通り、あの夜をなかったことにしてくれた……。
「二ノ宮さん、この後の予定は?」
 車窓を流れる景色を見つめながら、拓巳が穂乃果に問いかける。その横顔を綺麗だと思いながら穂乃果は口を開いた。
「今日はもう副社長の予定はありませんから、このまま自宅へお送りします」
 彼は、部長時代は他の社員たちと同じように電車で通勤していたが、副社長に就任してからは運転手付きの車での送迎を受けている。
 面倒だと彼は言うが、獅子王不動産ほどの大企業の副社長なのだから、それは仕方がないだろう。
 穂乃果は彼を自宅へ送り届けた後、この車で会社へ戻り、そこから電車で帰る予定になっている。
 順番的に穂乃果の方が帰宅が遅くなるわけだが、こんなことは穂乃果が秘書になってからはじめてのことだった。
 彼は部長時代から毎日夜遅くまで時間を惜しむように仕事に打ち込む。それは副社長になってからもまったく変わらなかった。激務の彼のサポートは思った以上に大変だ。
 でも彼は穂乃果を夜遅くまで連れ回すことはなかった。他の一般の社員と同じように就業時間が終わったらタイミングを見て帰るように声をかけてくれる。お陰で穂乃果は日中どれほど忙しくても次の日まで疲れを持ち越すことはほとんどなかった。
 このまま自宅へ向かうという穂乃果の答えに、拓巳が眉を寄せて穂乃果を見た。
「俺の予定を聞いているんじゃない。君の予定を聞いてるんだ」
「え?」
「この後予定はあるのか?」
 予想外の問いかけに穂乃果は目をパチクリさせて、とりあえず口を開く。
「特にはなにもありません」
「そうか」
 拓巳が頷いた。
「ならこのまま、俺の自宅で一緒に降りろ。家へは後で送ってやる」
「え! ど、どうしてですか……?」
 目を剥いて問いかける穂乃果に、拓巳が鋭い視線を送った。
「どうしてじゃないだろう。君には言いたいことが山ほどあると言ったはずだ」
 初日に彼が言っていた言葉だろう。でも……。
 あの夜の出来事はふたりの間でなかったことになったのだ。今さらなにを言いたいというのだろう。
「もうその話は終わったはずじゃ……」
 穂乃果の口から思わず出た言葉に、拓巳がぴくりと反応して、もたれていた背を起こし穂乃果のヘッドレストに手をついた。
「あれで終われるわけがないだろう。あんなんで俺は納得していない」
 不快感をあらわにして少し声が大きくなる。どきりとして穂乃果は運転席を確認した。運転席と後部座席との間には、アクリル版の仕切りがあって、一応は会話が聞こえないようになっている。とはいえ狭い車内のこと、大きな声を出したら気づかれてしまう。
「君のへたくそな別れ話に、俺はまだ頷いていない。だからまだ俺たちは付き合っている。だいたい君は……」
「ふ、副社長……!」
 穂乃果は慌てて彼の言葉を遮った。そしてまたチラリと運転席を見る。幸いまだ運転手には気付かれていないようだった。
 穂乃果の視線の意図するところに気が付いて、拓巳が穂乃果をじろりと睨んだ。
「誰かに聞かれたくないのなら、俺の言う通りにしろ」
 さもなくば今ここで話の続きを口に出すぞと言わんばかりの拓巳の視線に、逆らうわけにいかなくて、穂乃果はこくんと頷いた。
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