【完】総長は、甘くて危険な吸血鬼 Ⅰ
『はー…どうしちゃったんだろ私…』
お手洗いの鏡の前で冷水で顔を洗い、小さく息を吐き出す。
さっきから頭の中が叶兎くんのことでいっぱいになって、何も考えられなくなっている。
……そう、さっき橋の上で「好き」と言われてからずっと。
お手洗いを借りたのは、流風くんの追及から逃げるための口実だった。
3階の廊下は静まり返っていて、人影もない。
少しの間心を静めてから、そろそろ下に戻ろうとエレベーターの方へ歩き出した、その時だった。
ほんの少しだけ隙間が開いた部屋のドアから、低く真剣な話し声が漏れ聞こえてくる。
「凛、元気にしてた?」
「うん。でも全然帰ってきてくれないじゃん!さみしい」
「ごめんね、こっちも色々忙しくて」
扉のわずかな隙間から漏れ出てきたその声を聞いた瞬間、私の足はピタリと床に縫い付けられたようになって動かなくなった。
この声……聞き間違いじゃなければ、叶兎くん……?
だけど、じゃあ一緒に部屋にいるその声の主は誰……?
人の会話を盗み聞きするのが悪いことなんて、重々分かっている。
分かっているのに、どうしてもそこから一歩も動くことができなかった。
だって……ドアの向こうから聞こえる声は、間違いなく若い女の子のものだったから。
「ここのみんなとは仲良くやれてる?」
「うん!みんなやさしーよ」
「そっか、それなら良かった」
何か……いつもと違う…。
優しい声のトーンに、優しい口調。
「じゃあ、今はちょっと待たせてる人がいるから少しだけね」
嫌な予感に背中を冷や汗が伝うのを感じながら、私は吸い寄せられるようにそっとドアの隙間から部屋の中を覗き込んだ。
部屋の中にいたのは、二人の影、そして──。
──女の子が、叶兎くんの血を、吸っていた。