海に溺れて
⑦  インド医学
 
 翌日、吉澤が賀茂クリニックの診療室にいた。今日から僕の治療現場を見学することになっていたのだ。吉澤はインターンになりすまし、ただ黙って見学する。それと、記事は僕から聞いたような内容にするという条件つきだった。

 最初の患者は心臓の調子がすぐれないと聞いていた。僕はやさしい笑顔をつくり、患者に椅子をすすめた。僕の父くらいの患者だから、そう、六十近い男性だろう。髪も薄くなり、目もとには黒々とした隈ができていた。頬がこけ、目の輝きもなかった。カルテをみると、六十二歳だった。名前は義仲波尾と記載されていた。

「心臓の調子が悪いのだそうですね?」

「そう、そうなんです。ときどき胸のあたりが痛くなるんですよ。それに腰痛で、首と肩も異常なくらいにこっていて、とても辛いんです」

「それは辛いですね。ほかの病院にはいかれたのですか?」

「ええ、狭心症だと言われました。今はいつも薬を持ち歩いていますが、いつまた胸が痛くなるかと思うと、いつも不安で眠れないんです。先日、近所の家の人から賀茂クリニックのお噂を聞いて、ぜひ一度みてもらおうと思いまして伺ったんです」

 僕はいつものように、体質を調べますといっていくつかの質問をすることにした。性格診断のような質問が多いためか、義仲さんも少し戸惑うようなそぶりをみせていた。それから義仲さんの口のなかをみてから脈をみた。

「林さんはヴァータ体質ですね」

「先生、ヴァータってなんですか?」

「ええ、私のクリニックの噂を聞いてこられたならご承知かと思いますが、私はインドのアーユルヴェーダを学んで、インドの医学を実践している者なのです。そのアーユルヴェーダでは、ヴァータ、ピッタ、カファのみっつの体質に区分しているのです」
 
「インド、ですか」

 義仲さんは聞き慣れない言葉を聞いて、ほんの少し顔をゆがめた。僕は、聴診器で義仲さんの胸の鼓動を確認したあと、となりの処置室にいき、義仲さんをセミダブルほどのベッドに患者をあおむけに寝かせた。そのベッドには、はじめは花柄の毛布がかけられていたが、義仲さんを寝かせる前にその毛布をとった。一般の病院ではまず置かれていない、広く大きなベッドだ。

「先生。下がやわらかくて、それにあたたかくて気持ちがいいですね」

「ええ、湯たんぽであたためておきましたからね」

 僕は世間話などをして、義仲さんをリラックスさせることに時間をかけたあと、ようやく本題にはいった。

「義仲さん。心臓の病は怒りが最大の原因だといわれています。なにを怒っておられるかは尋ねませんが、病はあなたの怒りと恐怖心に対して、抗議をしているだけなのですよ」

 義仲さんの顔から笑みが消えた。そして顔を紅潮させ、

「賀茂先生。私は治療をうけにきたのであって、説教を聞きにきたんじゃないですよ」

 と言うなり、突然胸をおさえた。

「義仲さん。あなたの病気は治ります。あなたが抱えている不安と痛みから、解放されたいと思っていないのですか?」

「先生の話を素直に聞けば治るとでも」

「いえ、あなたが自分の体に感謝する気持ちになればかならず治ります」

 吉澤は、落ちつきをなくしたようで、そわそわしているようにみえた。

「それでははじめに、コロニックスをして腸をきれいにしましょう。神経や筋肉、内蔵の不調は身体のなかの毒素が原因だとされているのです」

「先生、浣腸ですか?」

「いえ、似たようなものですが、体温とおなじくらいのぬるま湯をチューブで肛門にいれて、腸のなかを洗い流すものです」

 僕はカナさんを別室にいってもらってから、義仲さんに裸になってもらい、右脇を上にした横向きで、ひざを曲げてベッドの上に寝てもらった。

「つらくなったらそういってくださいね」

 チューブを義仲さんの肛門に入れ、注入がはじまった。しだいに義仲さんの額から汗がにじんできた。顔をゆがめてときどきゲップをした。

「先生、腹が張ってきて苦しいです」

 その瞬間、僕は注入をやめ、真空になった注入器が、一度に腸の内容物を引き出させた。

 義仲さんにトイレにいってもらってから風呂にも入ってもらった。
 
 処置室に僕と吉澤だけになると、吉澤が質問を浴びせてきた。

「思った以上にすごい治療をやっているんだな。女性が患者のときはどうするんだ?」

「マッサージもコロニックスもカナさんがやってくれている。だけど、女性の患者さんにはコロニックスはすすめずに、ふつうの浣腸ですますようにしているよ」

「カナさんは求人して入ったのか?」

「ああ、いや、インドでアーユルヴェーダをともに学んだんだ」

「ほほう」

 吉澤が意味深な笑いをするので、僕は携帯を取り出し、リアルな彼女がいる証明のために、携帯の待ち受け画面の真由子をみせつけた。吉澤はなんとなく優しい顔にかわった。

 やがて風呂あがりの義仲さんが、バスタオルをまいたまま処置室にもどってきた。

 僕はそのあと、義仲さんをトランクスだけにしたあと、うつぶせに寝かせた。それからゴマ油を義仲さんの背骨のあたりに塗り、強弱をつけながらマッサージをはじめた。

「義仲さん、どうですか?」

「ええ、ええ、とても気分がいいです」

 義仲さんの顔はすっかりなごやかになっていた。

「オイル・マッサージも、インド医学、アーユルヴェーダの治療法なんですよ。すべてとはいいませんが、精神的な歪みが脊柱をも歪めて、内蔵の不調をもたらすのだとされています。ですから、こうして背骨をゴマ油でマッサージしていると、脊柱が調整され、内蔵の不調さも改善されるというわけです」
 
 気分がよいのか、義仲さんはなにも口にせずに、目をとじたままだ。三十分ほどしてからマッサージを終え、それから体についたオイルを丁寧にぬぐった。義仲さんは首と肩をしばらく動かし、ベッドからおりて下着と服を着た。そして突然室内を歩きだし、屈伸運動をはじめた。そして顔をほころばせ、
 
「ああ、どうしたことだろう。胸のほうはわからないが、腰があまり痛くない。それに首や肩のこりがずいぶん楽になりましたよ。本当にありがとうございます」
 
 と、頬を紅潮させ、幸せそうな顔でいった。

 それから一週間がたった頃、義仲さんから電話が入り、義仲さんの息子さんが仕事もせずに放蕩三昧であることに怒っていたのだが、息子さんと向かい合い、落ち着いた心で息子さんの立場になって話し合いを続けたら、息子さんもようやく仕事をする気になったようだと話してくれた。

 
< 7 / 8 >

この作品をシェア

pagetop