鎖から放たれた蝶々は美しく羽ばたく
「こちらこそ、今日はありがとう、ございまし、た。
楽しかった、です」

だからこそ、忘れていた。
なのに、現実は。
いまだに、神月さんの顔を見られない。
これできっと、引っ越しの話は彼の中でなくなっているだろう。

「じゃ、じゃあ」

それ以上、彼はなにも言わない。
曖昧に笑い、マンションの入り口へ向かおうとした、が。

「……電話、して」

彼の手が私を引き寄せる。
次の瞬間、彼の腕の中に収まっていた。

「どんな些細なことでもいい。
なにも話さなくてもいい。
泣き声だけでも、無言電話でもかまわない。
言いたくないなら、僕は訊かない。
だから、電話してほしい」

ぎゅっと彼の腕に力が入り、痛い。
神月さんは私の、なにを知っているというのだろう。

「……約束、だからね」

身を屈めた彼の顔が近づいてくる。
それを拒否もせずに待っていた。
唇が一瞬だけ重なり、離れる。
それが酷く、名残惜しい。

「じゃあ、また」

「……また」

彼が車に乗り込み、バタンとドアが閉まる。
それはまるで、私を現実へと戻す音のようだった。

「……ヤだな」

あの人のもとへ向かう足がこんなに重かったことが、いまだかつてあるだろうか。
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