指輪を外したら、さようなら。


 翌日。

 俺は上層部の面々に深々と頭を下げた。

 別居中とはいえ、既婚者の俺に言い寄った千尋を悪く言う者、隙を見せた俺にも非があると言う者、そもそも別居の原因が千尋との不倫関係だったのでは言う者と、様々だった。

 俺は、その全ての言葉を聞き流して、謹慎中の遅れを取り戻すべく、仕事に励んだ。

 仕事帰りに千尋の部屋に立ち寄ると、窓に『入居者募集』の張り紙があった。

 俺は、しばらくその張り紙を眺め、区役所の深夜窓口に寄ってから帰った。

 離婚届に記入するのは、二度目だった。

 最初は、美幸に裏切られた怒りで書き殴ったが、今度は丁寧に書いた。

 それから、電話をかけた。

 深夜と言える時刻ではあったが、どうでも良かった。

『はい』

「離婚届を用意した」

『久し振り、とかないわけ?』

 声の様子からして寝ていたわけではなさそうだが、不機嫌そうではある。だが、不機嫌さなら、俺も負けてはいない。

「明日にでも会いたい。印鑑を持って来てくれ」

『何のために?』

「念書を、見た」

『それで?』

 別居する前までは、このテンポのいいやり取りが楽しかった。

 今は、不愉快でしかないが。

「離婚に同意したんだろ」

『ええ』

「だったら――」

『けど、あの念書には、離婚の期日は書かれていなかったわよね?』

「はっ――?!」

『いつまでに離婚する、って縛りはなかったでしょ?』

「ふざけるなっ!」

 恐らく、隣にまで響いただろう声量で、俺は言った。もちろん、無意識に。

「明日、判を押さなければ、調停を申し立てる。お前の両親にも言う」

『……っ!』

 今までは、両親同士が親しいことに配慮していた。今となっては、もっと早くそうすれば良かったと後悔するばかりだが。

「俺は本気だ」

『……好きに……したらいわ』

 電話の向こうがシンッと無音になり、スマホを耳から下ろすとホーム画面に戻っていた。

 美幸は、俺が本当にそんなことをするとは思っていないのか。それとも、本当に両親に知られてもいいと思っているのか。

 ともかく、俺はもう、形振り構っていられない。



 好きにするさ。



 俺は鞄の中から大判の手帳を取り出し、後ろの方のメモページにペンを走らせた。

 これから、俺がやらなければならないことを箇条書きにしていく。

 それから、その項目に数字を振っていく。

 最後の項目には数字は振らず、代わりに赤で項目全体を囲った。

『千尋を探す!』



 だが、どうやって……?



 今更だが、俺は千尋のことを何も知らない。

 ひとりっ子なのは聞いていたが、両親が健在なのか、どこに住んでいるのか、などは何も知らない。

 大学時代の仲間と定期的に集まっているのは聞いていたが、具体的にどこの誰なのかは知らない。



 いや、待てよ……?



 俺は、飲み会で酔った千尋を迎えに行った時のことを思い出していた。
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