指輪を外したら、さようなら。
「楓ちゃん、出来るところまででいいから打ち合わせ内容をまとめておいて。明日の朝一で有川主任と最終の打ち合わせをするから」
翌日は朝から外勤で、比呂とは顔を合わせていなかった。忙しくしていれば、憂鬱な気分を忘れられる。
それでも、社に戻れば比呂とは否応なく顔を合わせるし、一緒に仕事もする。
「わかりました。主任は午後も外勤ですよね? 戻りますか?」
「うん。遅くなるだろうから、待たなくていいから」
「じゃあ、主任の机に置いておきます。有川主任の分もコピーしておきますか?」
入社五年の楓ちゃんの補佐も板についてきた。
「私の方で追加があるかもしれないから、共有ファイルに保存しておいて」
「はい」
「あの――」
ビルの前五歩のところで、背後からの女性の声に振り返った。楓ちゃんも。
女性は私と同じか少し上の年に見えた。落ち着いた、柔らかい雰囲気を纏った女性。
綺麗な髪だな、と思った。
羨ましいほど真っ直ぐな、艶のある黒髪。
「失礼ですけど、ホームデザイン部の有川と同僚の方ですか?」
確信した。
比呂の奥さん――。
「そうですけど――」
「いつもお世話になっております」
楓ちゃんの言葉を遮って、言った。
楓ちゃんは不思議そうな顔をしている。
彼女が比呂のことを『有川』と呼んだことに気づいていないらしい。
私が敢えて、『ご主人には』と言わなかったことにも。
昨日まで比呂と一緒にいた奥さんが、わざわざ会社を訪れた真意が、わからないから。
「こちらこそ。主人がお世話になっております」と、女性が丁寧にお辞儀をした。
黒髪が宙に揺れる。
「え――? 主人て――」
「すぐにお呼びします」
動揺する楓ちゃんの言葉を遮って、言った。
「そこのカフェにいるから、と伝えてもらえますか」と言いながら、奥さんはビルの斜め向かいのカフェを指さした。
「わかりました」
「お願いします」
私たちは互いに会釈して、背を向けた。
「有川主任の奥さん!? 別居中なんですよね?」
楓ちゃんはいい子だけれど、お喋り好き。昼休み後には、別居中の奥さんが比呂を訪ねてきたことは少なくとも部内には広まっているだろう。
楓ちゃんに口止めしたところで、あまり意味はない。
あと十五分もしたら昼休みで、奥さんが指定したカフェは会社の人間が多く利用する店だから。
「私は有川主任に電話で伝えるから、楓ちゃんは先に戻って、お昼に入って?」
「わかりました」
楓ちゃんはエレベーターホールに向かって歩き出し、私は彼女の背中を見ながらスマホを耳に当てた。
昨夜のことを考えれば、気が重い。けれど、私は少し苛立っていて、彼に電話することを何とも思わなかった。
だって、離婚話が進んでいるのなら、奥さんが会社に現れるはずがない。
『はい』
何も知らない比呂は、むしろ自分が不機嫌だと言わんばかりに、低い声で言った。
『忙しいんだけど』
「奥様がいらしてます」
私は、彼に負けないくらい、不機嫌さをあらわにした。
『――はっ!?』
「綺麗な女性ですね」
『なんの冗談――』
そう言った比呂の声は小さく、他の人には聞こえないようにこそこそ言っているのがわかった。
「向かいのカフェでお待ちです」
それだけ言って、私は電話を切った。