指輪を外したら、さようなら。
案の定、比呂が戻って来た時には好奇の視線に晒されていた。
誰も気づいていないようだったけれど、私は比呂が奥さんと有意義な食事が出来たわけではないとわかった。
それでも、比呂が奥さんと復縁するのではと噂する声を聞くと、比呂以上にいたたまれなかった。
「いつからだ?」
ノートパソコンを持ってミーティングブースに逃げ込んだ私は、頭上からの声に驚いて顔を上げた。
「課長」
長谷部課長は持っていた缶コーヒーを私の前に置いた。
自販機の中で一番甘いカフェラテ。
私はいつも、ブラックを飲む。
「今は、甘い方がいいんじゃないかと思ってな」
課長が私の正面に座った。
「ありがとうございます」
私は栓を開け、一口飲んだ。
糖分が喉を伝い、ゆっくりと胃に収まる。
「有川とは長いのか?」
「……」
「ポリシーに反して執着しているところを見ると、長いんだな」
「……」
「男の傷をその身体に引き受けて、お前の中に増えていく傷は、誰が癒やせるんだろうな」
長谷部課長も離婚経験者。
三年前、奥さんから離婚を切り出されて悩んでいた時、一度だけ関係を持った。
「――なんて、お前に傷を増やした俺が言うことじゃねーか」
課長も栓を抜き、缶に口をつけた。課長のは、ブラックコーヒー。
あの後、課長は離婚し、噂では再婚を考えている女性がいるらしい。
「俺さ、今でも元嫁と連絡とってるんだよ」
「え?」
「結婚している時はしたことなかったのに、メッセージのやり取りをしててさ」
驚いた。
円満に離婚したとは聞いていたけれど、そこまで円満だったとは。
「お前のおかげだよ」
「え?」
「あの時、お前に慰められなかったら、きっと揉めに揉めて、こんな風に連絡を取り合う関係にはなれなかった。お前のおかげで、俺は元嫁を自由にしてやる決断が出来た」
「そんなこと……」
「お前は悪女なんかじゃないよ」
『課長は悪女の誘惑に引っ掛かっただけ』
セックスの後、後悔の表情を見せた彼に、言った。
『むしろ被害者なんだから、罪悪感なんて持つ必要ないよ』
「俺には女神だったよ」
課長はコーヒーを飲み干し、立ち上がった。
「エロい女神」
「それ、嬉しくないですよ」
私は思わず吹き出した。
「嫁にボロクソに言われて、失ってた男としての自信を取り戻させてくれた」
こんな風に言ってもらえると、私のしてきた『不倫』て汚い行為が、神聖な行為かのように、錯覚してしまう。
だから、やめられない。
「感謝してるけど、後悔もしてる。お前の傷を増やしちまったこと」
「課長が責任を感じることないですよ」
「可愛い部下には、幸せになってもらいたいんだよ」
幸せ……か。
遠ざかる課長の足音を聞きながら、比呂と食べた冷麺の味を思い出していた。