指輪を外したら、さようなら。

 ドラマでよく聞くような台詞。

 いや、今時は社内不倫なんて珍しくもないから、割と身近な台詞なのかもしれない。

 とはいえ、本当ならば、身が竦むような脅し文句に、私の心臓は通常運転。

 度胸があるのか、その言葉に真実味がないからか。

「そんな言葉に狼狽えるくらいなら、最初から不倫なんてしていません」

「じゃあ……どうして? 結婚したいと思えるほど愛してもいないのに、どうしてそんなリスクを負ってまで比呂と付き合うの?」

「幸せになって欲しいと思うくらいには愛しているので」

「……本当に面白い人ね」

 そう言って奥さんは微笑んだ。彼女の余裕の表情が、ムカつく。

 自分も愛人でありながら、夫の愛人の前では妻の顔をする。勝手すぎて虫唾が走る。

「奥さんはどうして不倫なんてしているんですか?」

 奥さんの余裕の表情を崩してやりたくて、聞いた。

「え……?」

「離婚して自分と結婚してほしいと思うほど愛してもいないのに、彼の子供を他人に育てさせようと結婚までするなんて、狂気染みてますよね。だったら、恋人を奪った親友に怒鳴り込む方が、余程健全だと思いますけど」

「――比呂と同じことを言うのね」

 そう呟いた奥さんの顔からは、笑みが消えていた。が、すぐに、また余裕の微笑み。

「それが私の愛し方なの」

「復讐の仕方――でしょう?」

「……」

 口元は微笑んでいるのに、目は全く笑っていなくて、それどころか殺意すら感じる。

 至近距離で心臓に照準を固定されてしまった。

 バッグの中でスマホが唸っていることに気が付いた。店に入った時にセットしておいたタイマーだ。

 私はスマホのホームボタンでタイマーを解除し、財布を取り出した。

「仕事に戻らなければならないので――」

「――あなたと比呂の関係は比呂の離婚が成立するまで、って言ったわよね?」

 奥さんはテーブルに両肘を立て、両手の指を交差させた上に顎を載せ、楽しそうに笑っている。

「はい」

「本気?」

「はい」

「じゃあ、離婚してあげるわ」

「……え――?」

「夫と別れて、夫の前から永久に姿を消すと約束してくれたら、離婚して比呂を解放してあげる」

 意味を理解するのに、僅かな時間を要した。言葉の意味は分かる。が、その言葉の意図が、わからない。

「私と別れた比呂が、愛人と結婚して幸せになるなんてズルイと思ったけど、違ったわね」

「え?」

「比呂が離婚を諦めると言ったのは、あなたと別れたくないからでしょう? けれど、あなたは比呂には離婚して幸せになって欲しいと言う。愛人としてでもあなたをそばに置きたい比呂は、あなたのいない幸せのためにあなたに離婚させられて、この先の人生をどう生きていくのかしら」

 どこまで歪んでいるのか。

 勝手に比呂を自分の復讐に巻き込んでおきながら、自分と別れて幸せになるのは許せないなんて、我儘でしかない。



 自分が幸せじゃないから、他人が幸せなのも見たくない……ってこと?



「比呂を捨てる決心がついたら、連絡して?」

 名刺と千円札を二枚テーブルに置き、妻の仮面をかぶった悪魔は出て行った。
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