指輪を外したら、さようなら。

 比呂は言わないと思っていたのだろうか。

 奥さんは、ほんの少し寂しそうな表情でほうじ茶をすすった。

「彼の奥さんは、私の親友だったの」

 彼女がそう切り出した時、料理が届けられた。

 握り寿司六貫にエビと数種の天ぷら、茶わん蒸し、お吸い物のランチセット。

 どちらからともなく箸をつけ、食べ始めた。正直言って、味わう余裕なんてない。

「手短に言うと、奪われたのよ」

 手短すぎる事実に、私は掬った茶わん蒸しを器に落としてしまった。

「ハメられた彼も馬鹿なんだけど……」

「ハメられた……って」

「そのままの意味。酔ったはずみでホテルに連れ込まれて、ひと月後に妊娠がわかって、そのひと月後に入籍」



 それは、また……。



「間抜けな話よね」

 そう言って、自らをあざ笑うように微笑んだ。

「それなのに、別れようと思わなかったんですか?」

「思った……わよ。けど、出来なかったの」

「だから、彼の身代わりに比呂と結婚を?」

「結果的には、そうね」

「彼はあなたの目論見を知っているんですか?」

「……」

 黙ったところを見ると、知らないらしい。が、意図したことがどうであれ、不倫相手が結婚するのを、相手の男は許したのだろうか?

 どうも、まともな関係には思えない。



 まぁ、不倫自体がまともではないんだけど……。



「私は、離婚して私と結婚してほしいなんて、思ってないわ」

 家庭を壊す気はない、なんて殊勝なことを言うような人には見えない。そもそも、恋人を寝取られたのだから、遠慮はないはずだ。

 相手に子供がいるからだろうか。

「で? あなたは?」

「え?」

「結婚。比呂としたい?」

「いえ」

「そうなの?」

「はい。けど、離婚してほしいとは思っています」

「え!?」

 私が彼女を理解できないように、彼女も私が理解できないのだろう。

 理解なんて、させる気もないけれど。

「比呂は、私と離婚して、あなたと結婚したいようだったけど?」

「私たちの関係は、比呂の離婚が成立するまで、の約束なので」

「なぁに? それ」

 フフフ、と柔らかい微笑み。比呂の奥さんは聞いていた年齢よりも若く見えて、けれど年相応の落ち着きがあって、女性らしい柔らかくて温かい雰囲気を持っている。

 見るからに気の強い私とは正反対。

「火遊びが、好きなので」

「――面白い女性(ひと)ね。人様の夫を唆しておいて、火遊びだと言い切るなんて」

「あなたのように本気だと言えば、何か変わりますか? 私は、自分のしていることを正当化するつもりはないですし、無関係の誰かを犠牲にするつもりもありません。それに――」

 初対面、正確には二度目だけれど、わかる。

「自分の夫を唆されて、火遊びだと言われても腹が立たないほど、あなたは比呂を愛していない」

 私は、奥さん(この人)が嫌いだ。

「あなたに謝る気も、比呂をくれと懇願するつもりもありません」

「いいの? そんなことを言って。あなたたちの関係が会社に知れたら、どうなるか考えている?」
< 53 / 131 >

この作品をシェア

pagetop