さつきの花が咲く夜に
 「事情はわかりました。私が全学部に内線
で訊いてみるから、向こうの応接セットに掛
けて待っててもらえるかしら?そこに突っ立
ってると他の学生さんの迷惑になってしまう
から」

 そう言われて振り返ると、何かの用紙を手
に急くような眼差しを向けている男子生徒が
後ろに立っている。俺は慌ててその場を譲る
と、その生徒の応対を他の事務員に委ねてく
れた彼女に、ぺこりと頭を下げた。

 「お忙しいところ、ありがとうございます」

 「いいのよ。その怪我で走り回るのも大変
でしょうから。桜井マルさん、だったかしら。
どんな字を書くの?」

 「満天の満に留まるの留で、満留です。
背がちっさくて、人形みたいな顔してて……」

 包帯でぐるぐる巻きにされた俺の左腕を見、
目を細めた彼女に名前と容姿を説明する。と、
彼女はにこりと頷き、さっそく受話器を手に
取ってくれた。俺はそわそわと落ち着かない
様子で、童謡に出てきそうな古い柱時計の傍
にある応接セットに腰掛けた。そこから遠巻
きに彼女を見守る。チクタク、チクタクと時
を刻む音がやけに大きく聴こえて、その音に
合わせて俺の鼓動も早なってゆく。

 それから二十分ほど経ったころだろうか。
 固唾を呑んでじっと中の様子を窺っていた
俺を向くと、その人はガラス窓の向こうから
手招きした。

 俺は祈るような想いで席を立つと、急いで
窓口へ行った。カラカラとガラス窓が開けら
れ彼女が顔を覗かせる。その表情は、先ほど
の渋い顔よりも、さらに渋い。

 「……あの、見つかりましたか?」

 恐る恐る尋ねると、やはり彼女はゆるりと
首を振った。

 「いなかったわ。全学部を当たってみたけ
ど、職員にもパートさんにも桜井満留という
女性はいないって」

 「……そんな」

 期待していたような返答が得られず。
「彼女がいない」という事実を、受け止める
ことも出来ず。俺は一点を見つめたまま、声
を失くしてしまう。ここへ来れば絶対会える
と思っていたのに。なぜ、彼女はどこの教務
課にもいないのだろう?

 頭の中は真っ白だった。
 わからないことだらけで、何を考えればい
いのかもわからなくなってしまう。まるで、
狐につままれたような顔をして突っ立ってい
る俺に肩を竦めると、彼女は申し訳なさそう
に言った。

 「ここのキャンパスだけじゃなくて、念の
ため古松キャンパスの方も確認してみたけど、
いなかったわ。お役に立てなくて申し訳ない
けど、もうこれ以上は捜しようがないのよ」

 「……そう、ですよね。俺のために貴重な
時間を割いてくださって、本当にありがとう
ございました」

 混乱したままでそう言うと、俺はぺこりと
頭を下げ、くるりと踵を返した。去り際に、
ちらりと柱時計を見やると、時計の針はすで
に五時を回っていた。
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