さつきの花が咲く夜に
 建物を出ると、俺は無意識のうちにそこを
目指して歩き始めた。
 立体駐車場と建物の間を抜けるタイル張り
の通路を進む。顔を上げ、真っすぐ前を見据
えれば、その先に木々が生い茂る中庭が見え
てくる。
 彼女はこの通路を歩いて、毎夜中庭に来て
いたのではないのだろうか?もし、この大学
の教務課で働いているという言葉が嘘なら、
どうしてそんな嘘をつく必要があったのだろう。

 俺はモヤモヤしたまま、中庭に足を踏み入
れると、彼女と座っていたベンチに腰掛けた。

 そして、二人で過ごした時間を思い起こす。

 『私ね、そこの大学の教務課で働いてるの。
お母さんが入院してからは、大学と病院を
毎日往復してるんだ』

 そう言いながら闇に聳え立つ大学を振り返
った彼女の目は寂しくも澄んでいて、やはり
嘘をついていたとは、到底思えなかった。


――彼女は絶対に嘘なんかついていない。
ならどうして、彼女の存在は霧のように消え
てしまったのだろう?


 ふと、『お化けがでる』というあの噂が脳
裏を過ぎって、俺はぐるりと中庭を見渡した。
 夏至まであとひと月といういま、辺りは昼
間とほとんど変わらないほど明るく、物恐ろ
しい空気は微塵も感じられない。

 「まさか幽霊じゃないよな。足、あったし。
手だって繋いで走ったし……」

 半ば、自分に言い聞かせるようにそう言う
と、何か彼女に繋がるような手掛かりはない
だろうかと考えた。


――そしてすぐに、はっと顔を上げる。


 手掛かりというほどのものではないけれど、
唯一、彼女が俺に残していったものがあった。
 俺はジーパンのポケットから財布を取り出
すと、あの夜、彼女が折ってくれた河童とポ
ロシャツの折り紙を手に取った。そして器用
に折られた河童を、そっと解いてゆく。
 すると、折り皺の残るレシートに印字され
ていた文字は『あんパン 六十八円』という
一行と、購入した日付と時間だけ。

 けれどそこに記されていた日付を目にした
瞬間、ざわ、と全身の肌が粟立ってしまった。


――二〇二×年十月十八日(火)


 レシートに印字されていた日付は、何かの
間違いだろうか?いまから十七年も後の……
未来のものだった。

 「……なんだよコレ、印字ミスか?」

 はは、と顔を強張らせながらひとり呟くと、
俺は急いでもう一つのポロシャツを解こうと
する。が、信じられないものを目の当たりに
した手は小刻みに震え、複雑に折り込まれた
それを解くのに数十秒を要してしまった。
 
 ようやく、破くことなく解けたレシートに
目を落とした俺は、ついに驚愕に息を止めた。
 やはり、そこに記されていた日付も、


――二〇二×年十月十七日(月)


 まぎれもなく、彼女が未来から来ていたこ
とを俺に告げている。
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