会うことは決まっていた
それから数週間で私は夫に離婚の意思を告げ、家を出た。
当然すぐに承諾してもらえそうになかったけれど、時間をかければ理解してもらえるだろうと思っている。
風の噂で草壁薬局の若旦那が大量の水墨画を残して消えたと知ったのは、家を出てからしばらくしてからだ。
史さんも宣言通りまた自分の道へ戻ったのだと知り少し安心したけれど、私は彼を探す気持ちにはならなかった。
(まず一人で生きられるようにならないと)
どこに行くあてもなかったけれど、住んでみたかった街に安いアパートを借りて働き出した。
昔から憧れていた花屋へ就職し、大変なこともあるけれど充実した毎日を送っている。
「寒いと思ったら、もう12月かぁ……」
窓際に置いてあるポインセチアは、お世話をした甲斐が実ってクリスマスに向けて赤くなりはじめている。
パートを辞める時に、お店からこのポインセチアの鉢をいただいてきたのだ。
皆私が離婚するのを知って心配もしてくれたけれど、頑張れと応援してくれたのが嬉しかった。
(私一人の力で生きて行くなんて絶対に無理だと思っていたけれど、どうにかなるものだな)
生活に必要なだけのお金が得られて。
食事を美味しいと思える心身の健康があって。
心には愛しいと思える人が住んでいて。
贅沢はできないけれど今が一番幸せで満ち足りていると感じる。
生きる意味をあの日もらったから。
(史さん……あなたを心から愛してます)
胸に手を置いて、その思いが心の底からの本音だと確信する。
もうあれきり彼とはなんの関わりもなくなったけれど、なぜか不思議な安心感があった。
(姿はなくても、どこかで繋がっている感じがする)
強がりのようだけれど、そうでもない。
だって、最初の方こそ病気になりそうなほど恋しくなる時もあったけれど、今はもう穏やかだ。
会いたくないわけじゃないけれど……叶わないなら今の形でいい。
(だって、会うことは決まっていた。その通り私たちは会えた……だからもう十分。そうでしょう?)
あの人に出会えたから、私は私の人生を歩めるようになった。
だから私は二度と彼に会えなくても平気だ。
ずっとあの人を愛するという覚悟はどんな時だって変わりないのだから。
その日もいつも通り私は花屋で働いていた。
仕入れたばかりの大量のポインセチアはクリスマスを待ちきれないようにイキイキと輝いている。
(うちのも、もうすぐこれくらいの赤さになるね)
「史さんに……見せたいな」
思わずそう口にした時、影で視界が一瞬暗くなった。
「随分たくさん入荷したんだね」
(……っ)
顔を上げるまでもなく。
その声は私が魂を込めて愛している人のものだと悟り、私は深い感動で胸を震わせた。
終わり


