*結ばれない手* ―夏―
「凪徒くんね、サーカス(ここ)には五年前の秋に入団したの」

「……え?」

 いきなりの凪徒の話に、モモは耳を疑うように夫人へ顔を向けた。

 柔らかな微笑みがその視界を占める。

「彼もモモちゃんと同じで、すぐ空中ブランコの演舞をマスターしたわ。さすがオリンピック候補に選ばれただけの技量があった……でもね、デビューには一年近く掛かってしまったの」

 ──えっ?

 モモの口は驚きの声を発しようと動いたが、そこから音声は出てこなかった。

「どうしてだと思う? ──それはね……彼、ずっと笑えなかったのよ」

 ──あっ──。

 五年前──きっとお母さんが亡くなった後だ……。

「今もあんまり笑うのは得意でないみたいだけど……入団して一年間は本当に仏頂面(ぶっちょうづら)で。笑顔を見せられないパフォーマーなんて、舞台に立てないでしょ? だからどんなに素晴らしい技を習得しても、彼は本番に出られなかった……やっと一年が経った頃、ようやくステージの上だけでも笑うことが出来るようになって、でもデビューした途端、彼の表情はグングン良くなっていったのよ。残念ながら()くまでも演舞の間だけだったけれど」

 そう言って一口お茶を飲んだ夫人は、今だ口を開けたままのモモにクスクスと笑ってみせた。


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