あのっ、とりあえず服着ませんか!?〜私と部長のはずかしいヒミツ〜
 もちろん、笹尾(ささお)に抱き締められていた杏子(あんず)だって少し引きずられて数段落ちたせいで足をひねった。結果、階段下まで転落した笹尾へ駆け寄るのが遅れたのだが――。

 騒ぎを聞きつけて集まった人だかりの中に恋人の安井(やすい)亜矢奈(あやな)を見つけた笹尾は、あろうことか『美住(みすみ)さんに《《呼び出されて》》踊り場へ行ったら交際を迫られた。断ったら逆上した彼女に突き飛ばされた』と嘘を並べ立てたのだ。皆の視線が集まる中、杏子が階段の上の方で立ち往生していて、笹尾のそばへ走り寄れていなかったことが、笹尾の嘘に信憑性(しんぴょうせい)を持たせてしまった。

 不幸なことに――いやもしかしたら故意かも?――、笹尾から指定された踊り場付近は防犯カメラの死角になっていて、杏子(あんず)がどんなに「違います! 私、笹尾さんに呼び出されて……それでっ」と訴えても、裏付けになるような証拠は何も残されてはいなくて。

 笹尾からの呼び出しにしても、内線電話を通じてのものだったため、外線通話以外着信履歴を残すように設定されてないビジネスフォンには何の履歴も残っていなかったから、どちらが呼び出したのかを問うのは、水掛け論に思われた。

 杏子の、「笹尾さんからいきなり抱き付かれた」という決死の訴えも「可愛い恋人がいるのに俺がそんなことするわけないじゃないか。心外だ」と反論された挙句、〝可愛い恋人〟と称された安井が「雄介がそんなことするはずないじゃんっ! 嘘つき女!」と泣きながら加勢して、杏子にとって不利な構図となってしまった。

 結果的に真実はどうあれ、誰も杏子を信じてはくれなかったのだ――。

 《《先に杏子が踊り場へ出向いた》》こと、《《後から笹尾が来たこと》》が他の場所へ設置された防犯カメラの映像で確認できてしまったことも杏子には不利になって、嘘をついているのはやはり美住(みすみ)さんのほうだと言う風潮が高まった。

 笹尾はきっと……最初から、今回みたいに何か起きた場合を想定して〝杏子の方から呼び出された〟と言い逃れする逃げ道を用意していたんだろう。

 杏子を先に踊り場へ行かせてから、自分はわざと《《五分ほど遅れて》》来たのだって、きっとそういう理由からだったのだ。考えてみれば、営業のエースと(うた)われる笹尾が、例え社内の人間との約束だとしても《《自分が》》指定した時間に遅れてくるなんておかしいではないか。

 だがそんなことに杏子が気付いたときには、噂には尾ひれがついて、自分一人ではもうどうしようもない状況になっていた。
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