あのっ、とりあえず服着ませんか!?〜私と部長のはずかしいヒミツ〜
「……課長?」

 戸惑いに揺れる瞳で中村課長を見上げたら「魚心あれば水心って言葉、賢い美住(みすみ)さんになら分かるよね?」とにっこり微笑まれた。

 中村課長は妻帯者で、今奥様は三人目のお子さんを妊娠中のはずだ。それに、もし課長がフリーだったとしても、恋人でもない相手からこんな風にされるのは杏子(あんず)の本意ではない。

 杏子は、「おっしゃられている言葉の意味が分かりません!」と言って中村課長を睨みつけた。

「これ以上変なことをなさるようなら、セクハラで訴えます!」

 言いながら、杏子はポケットへ入れたままにしていたスマートフォンにそっと触れる。

「ここには私と美住さんの二人きりだ。何の証拠もないよ?」

 杏子の勤め先会議室では、社内の重要な機密事項を話し合うこともあるため防犯カメラの(たぐ)いは設置されていない。発表前の新製品などの画像流出を防ぐための措置(そち)らしく、議事録に必要な場合はボイスレコーダーを持ち込んだりして音声を録音する形を取っている。会議室は普段施錠されているということもあり、それ以外で録画などは行われていないのだ。

 そのことを示唆(しさ)してきた中村課長に、杏子はポケットの中のスマートフォンをギュッと握り締めた。

 笹尾に酷いことをされて懲りたばかりだ。(失礼かも?)と思いはしたが、中村課長から個室へ呼び出された時点で、大事を取って対策は講じている。

「しょ、証拠ならあります!」

 杏子(あんず)は録音中になっているスマートフォンを中村課長に見せつけて、腕を放してくれるよう(こいねが)った。

 だが、「バカだな、わざわざそんなのものを私に見せるなんて……」という言葉とともにスマートフォンを取り上げられそうになって、杏子は本気で慌てたのだ。

 正直、録ったデータをどうこうするつもりなんてさらさらなかったのに、追い詰められた結果、『録音されたデータを転送する』ボタンをタップしてしまい、メッセンジャーアプリで一番最後にメッセージをやり取りしていた相手――倍相(ばいしょう)岳斗(がくと)――に転送してしまった。
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