原田くんの赤信号
「ちょっとちょっと、あなた大丈夫?」

 ふと上から降ってきた声に、血の通わなくなった顔を必死で起こす。
 そこには心配そうな瞳をわたしへ向けてくる、若い女性がひとり。

「なんだか具合悪そうだけど、大丈夫?うずくまっちゃったりして、お腹でも痛いの?」

 他人を不安にさせるほど、今のわたしは憔悴しているのだろうか。
 糸のようなか細い声で「いいえ」と言ったけれど、彼女はまだ心配そうだった。

「あなた、ここのマンションの人?」
「違います……」
「そう。これから誰かと待ち合わせでもしてるの?」
「してません……」

 周りを見渡した彼女は、他に誰もいないことを把握して、「そっか、ひとりかぁ」と呟いた。

「家まで送っていこうか?歩ける?」
「だ、大丈夫です。電車に乗っちゃえばすぐなんでっ」
「本当?遠慮なんかしなくていいのよ?」
「本当です、大丈夫ですっ」

 震える足を無理やり立たせて平然を装うと、彼女はほっとしたのか微笑んだ。

「それじゃあ気をつけて帰ってね。急げとは言わないけど、できるなら早足で帰った方がいいかも」
「え?」
「ほら。雷の音、聞こえない?」

 彼女の人差し指が上に立つのと同時にゴロゴロと唸り出したのは、今朝とは打って変わって濁ってしまった、灰色の空。

 原田くんが持っていたビニール傘が、頭を掠めた。

「雨、降るんですか……?」

 唇が、震えていく。

「だって今朝家を出る時は、あんなにいい天気で……」

 雲ひとつとしてない青空の下、一体誰がどう、この天気の急変を予想できただろうか。

 普通の人ならば、まずできない。
 できるのは、変わり者の原田くんだけ。

 ガタガタと歯が音を立てる。目の前の彼女は言う。

「ほんとよね、さっきまですっごく晴れてたのに、やになっちゃう。このままだとおそらく降るわよ。だから気をつけて帰ってね」

 わたしへ手を振った彼女は、最後に「明日は良い天気らしいけどね」と言い残し、マンションの中へ消えていく。

 その瞬間、わたしは包むのは、目には見えない暗闇だった。
< 67 / 102 >

この作品をシェア

pagetop