わたしは夫のことを、愛していないのかもしれない

9.匂~side イゾルデ~

(ようやくだわ)


 夜闇の中、イゾルデはウットリとため息を吐く。
 この数か月間、密かに蒔いてきた種が芽吹く時が来た――――そう思うと、口の端がニヤリと上がった。



『大丈夫ですか?』


 目を瞑れば、想い人――――ヴェルナーと出会った日のことをありありと思い出す。彼は身を呈してイゾルデを護ってくれた恩人だった。

 優しく、素直で逞しい、キラキラした瞳を持った青年は、擦れた貴族社会を生きてきたイゾルデには新鮮で。瞬く間に恋に落ちてしまった。

 けれど、彼には愛する妻が居た。


『アルマっていうんです。診療所で働いてて……世界で一番可愛い、俺の大切な人!』


 アルマのことを話すときのヴェルナーは、他のどんな時よりも輝いて見えた。呆れるほど真っ直ぐで、焦がれるほどに熱い。


(わたくしは、彼が欲しい)


 イゾルデはどうしても、その瞳を自分へと向けたかった。
 けれど、そんな彼女の願いが叶うことは無い。


『浮気? 無いですないです! 俺はアルマ一筋ですから!』


 さり気なく尋ねた質問を、ヴェルナーは迷うことなく一蹴した。
 腕にしな垂れかかってみても、思わせぶりなことを囁いても、ストレートに気持ちを口にしてみても、彼が揺らぐことは全くなかった。より良い職場、爵位をチラつかせても、驚くほどに効果が無い。


(どうやったらヴェルナーさまはわたくしを見て下さるの?)


 そもそも彼は、イゾルデに会おうとすらしてくれない。父親の名前を使い、勤務中に絶対断れない状況を作りだし、無理やり会っているに過ぎないのだから。

 やがて、イゾルデは気づいた。
 アルマが側に居る限り、ヴェルナーが彼女を見ることは絶対に無い。


(アルマさんが居なくなればヴェルナーさまはわたくしを見て下さる――――)


 それからイゾルデは、アルマを排除すべく、様々な種を蒔き始めた。

 ひと吸いで女性ものと分かる香水を身に着け、それがヴェルナーにも移るよう画策する。少し危ない目に遭うだけで、ヴェルナーはすぐに助けてくれる。純粋な女一人を疑心暗鬼にさせるには、それだけで十分だった。


『え? 香水?』

『ええ。奥様にプレゼントしては如何です?』


 また、ある時には、直接ヴェルナーに香水を吹きかけた。『こうやって使うのだ』と囁きかけ、手首に、首に塗りつけさせる。そうするだけで、まるで身体を重ねた後かの如く、濃厚な香りを家まで持ち帰らせることが出来た。


『うーーん、気持ちはありがたいんですが、この香りはアルマには似合わない気がします。
第一、香水なんてなくとも、俺はアルマ自身の香りが好きなので』


 そんな風に言われてしまえば、イゾルデの心は当然、深く傷つく。
 けれど、それでも構わなかった。


(いずれはわたくしが、アルマさんに成り代わるのだから)


 当然、アルマの診療所を訪れたのも偶然ではない。若い女性魔術師を指名すれば、恐らくはアルマに当たるだろうと踏んでいた。案の定、最初の診療から、アルマはイゾルデの担当になった。

 ヴェルナーに会う時と同じ香水をたっぷり付け、アルマが確実に気づくよう仕向ける。アルマの動揺っぷりは、表情を見るだけですぐに分かった。


(まだよ。これじゃ全然足りないわ)


 自身の不調が『アルマ』にあることを匂わせながら、じわじわと精神的に追い詰めていく。守秘義務があるため、恐らくアルマは誰にも相談ができなかっただろう。相手が領主の娘であるイゾルデならば、尚更だ。
 そうと分かっていて、イゾルデはアルマに『恋煩い』を打ち明けた。効果は抜群だった。


(さっさとヴェルナーさまの元を去りなさい?)


 けれど、ようやく追い詰めたと思ったその時、唐突に担当が変わったと告げられた。


『魔術師の健康も、患者様の健康と同じかそれ以上に重要なのでね』


 説明に現れた魔術師は、険しい表情でそんなことを言った。咎めるような口調。彼にはイゾルデの目的がバレているのかもしれない。


『あらそう……残念ですわ』


 もっと早くに引き離されていたなら話は違っただろうが、その時点でアルマは、僅かな揺さぶりでも十分な程、傷つき疲弊していた。


(本当に、流されやすい、馬鹿な女)


 確固たる自分を持っていないから、人の意見に惑わされる。与えられた情報を真実だと思い込み、己の内に抱え込んで自爆する。
 彼女の気持ちを操作するのは実に簡単だった。


『愛とは、己よりも相手を大切に思うこと。
ヴェルナーさまはわたくしと共にある幸せを願っています。己の実力が認められ、引き立てられることも。
……ですから、アルマさん。もしもあなたがヴェルナーさまを愛しているなら、彼の願いを叶えてあげてくれませんか?』


 こう口にするだけで、愚鈍なアルマは引き下がる。『わたしはヴェルナーを愛しているから……』等と思い詰め、自ら引き下がる道を選ぶのだ。
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