わたしは夫のことを、愛していないのかもしれない

8.ずっと

 月が綺麗な晩だった。カーテンを閉めるのが勿体ないぐらい、月明かりが眩く美しい。


「綺麗だね」


 そう言ってヴェルナーがわたしのことを抱き締める。彼の瞳に映っているのは月なんかじゃない。わたしだけだ。


「そうだね」


 答えながらカーテンを閉め、わたしはゆっくりと目を瞑る。次いで慈しむように口付けが降り注ぎ、彼の背中に腕を回した。


「アルマ……愛してる」


 ヴェルナーはいつものように、わたしへ愛を囁く。
 全身を掻きむしりたくなるような、熱い衝動。肌を撫でる大きな手のひらも、首筋に落とされるキスも、彼の全てがわたしを焦がす。


「ヴェルナー、わたしも……ヴェルナーを愛してる」


 想いを唇に乗せれば、ヴェルナーは大きく目を見開く。それから瞳を潤ませ、わたしの身体を搔き抱いた。


「アルマ……アルマ…………!」


 わたしが彼に想いを伝えるのは初めてのこと。『好き』の一言すら、わたしは口にしたことがなかったから。


「俺も……愛してるよ、アルマ」


 ヴェルナーは苦し気に、愛し気に、そう言葉にする。

 あの日――――イゾルデさまの想い人がヴェルナーだって知ったあの日から、彼に『愛してる』と言われるたびに、『嘘吐き』って、心の中でそう呟いていた。
 だけど、多分それは間違いだ。

 彼はきっと、わたしのことも愛してくれていたのだと思う。

 二人で何度も夜を超えた。
 時に激しく、時に慈しむように触れられて、互いに向き合って生きてきた。――――その全てが嘘だったとは、わたしにはとても思えない。熱と共に吐き出された言葉が、想いが、心に染み入るみたいだった。
 たとえ一番じゃなかったとしても、ヴェルナーの愛情だけは疑わない。疑いようがなかった。


『愛とは、己よりも相手を大切に思うこと』


 こんな時っだっていうのに、イゾルデさまの言葉が頭の中で木霊する。自嘲し、ヴェルナーの頬を撫でながら、わたしはまじまじと彼のことを見つめた。


「愛してるわ、ヴェルナー」


 だけど、わたしが彼を愛すること――――それはヴェルナーとの別れを意味している。

 愛しているなら――――愛しているのだから、わたしは彼を解放しなければならない。ヴェルナーの願いを叶えるために、わたしは今夜、彼の元を去る。


(ずっと一緒に居たかったな)


 言葉にできない想いを胸に、わたしはヴェルナーを抱き締める。
 キラキラした綺麗な金髪も、優しい瞳も、お日様みたいな汗の臭いも、全部全部好きだった。幼い頃から一緒に居るのが当たり前で、離れるなんて想像もしたことがなかった。もっと早くに気づけていたら良かったのにって思うけど、過ぎた時間は巻き戻らない。

 だけど、そう思ったその時、ヴェルナーが穏やかに目を細めた。


「アルマ……ずっとずっと、一緒に居よう」

「…………え?」


 呆然と彼を見上げたわたしに、ヴェルナーは優しく微笑む。


「よぼよぼのおじいちゃんとおばあちゃんになるまで、ずーーっと一緒。
子どもは……出来たら嬉しいけど、出来なかったら二人きりでも構わない。俺はアルマと一緒に居られたら、それが幸せだから」


 彼の言葉に、涙がポロポロと零れ落ちる。ヴェルナーはわたしの手を握りしめ、額や頬に口付けを落とした。


「愛してるよ、アルマ」


 胸がいっぱいで、わたしにはそれ以上、何も言うことができなかった。


***


 汗でしっとりと湿ったシーツの上に、ヴェルナーと二人身体を投げ出す。熱く火照った空気が鎮まり、やがて静かで穏やかな夜が訪れる。
 ポンポンと背中を撫でる手が止まり、浅かった呼吸が深く、ゆっくりになるのを見計らって、わたしはベッドからそっと滑り降りた。


「……良い顔」


 ヴェルナーはとても、気持ち良さそうな顔で眠っていた。ついつい抱き締めたくなるような、愛らしい顔をしている。


(最後が笑顔で良かった)


 ヴェルナーに悲しい顔は似合わない。いつだって笑っていてほしいし、幸せで居て欲しいと心から願う。


「愛してるわ」


 滑らかな頬に口付け、目を瞑ったまま身を翻す。
 それから、予め用意しておいた記入済みの離婚届を、机の上に置いた。


(これで良いんだよね?)


 愛とは、自分よりも相手のことを大切にすること。その想い。


(わたしが居なくなったら、ヴェルナーはイゾルデさまと幸せになれる)


 イゾルデさまと愛し合うことも、共に生き、家族になることも、彼の夢をかなえることも、全ては想いのままだ。


(わたしはヴェルナーを愛している)


 だから、きっとこれで良い。これで良いんだ。
 必死で自分にそう言い聞かせて、物音を立てないようにしながら、静かに家の扉を開ける。


『アルマ……ずっとずっと、一緒に居よう』


 だけどその時、先程のヴェルナーの言葉が、やけに大きく響いた。
 わたしは思わず、ベッドの上のヴェルナーを見る。スヤスヤと気持ち良さそうな寝息が聞こえてきて、ほっと胸を撫でおろす。


(本当に、これで良いのよね?)


 自問自答を繰り返しながら、わたしは静かに扉を閉めた。
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