わたしは夫のことを、愛していないのかもしれない
2.患う者
(んーー……多分、この辺かなぁ)
治療用の寝台の上、横たわった子どものお腹に手をかざすと、その子は「ウッ」と唸り声をあげる。不安気な表情に、胸が痛んだ。
「痛いよね? もう少しだけ我慢できる?」
しばしの間手のひらを当て、やがてゆっくりと魔力を流し込む。すると、すぐに確かな手ごたえを感じた。
患部と原因さえ分かってしまえば、あとは簡単だ。魔法で原因を取り除き、炎症を治めるよう働きかける。空いた方の手で額の汗を拭ってやると、さっきまで真っ白だった男の子の顔に、みるみる生気が戻って来た。
「本当に、ありがとうございます」
男の子の母親が、何度も嬉しそうに頭を下げる。子どもが激しい嘔吐と下痢に悩まされていたのだから、看病する方も大変だったのだろう。くっきりと疲れの色が浮かび上がっている。
「いいえ。――――お大事になさってくださいね」
(この人の疲れが少しでも取れますように)
母親の手を握り、少しずつ、少しずつ魔力を流し込む。診療行為だと目されれば、この分まで費用が請求されてしまう。あくまでバレない程度――――偶然魔力が移ってしまったのだと言い訳できる程度に留めた。
「ありがとう、お姉ちゃん。痛いのすっかり良くなったよ」
歯抜けた顔でニカッと微笑む男の子に、わたしは穏やかに微笑み返す。屈託のない明るい笑み。なんだか幼い頃のヴェルナーを見ているみたいで、胸がほっこりと温かかった。
***
「――――70点って所だな。患部を見つけていた癖に、魔力を注ぐまでに時間が掛かりすぎている」
「はい、すみません……」
項垂れつつ謝罪を述べれば、相手は小さくため息を吐いた。
「治療は的確かつスピーディーに。アルマ、君はもっと自分に自信を持って良いと言っただろう?」
そう口にするのは、わたしが勤めている魔術診療所の所長だ。先程の診療を見られていたらしく、こうして呼び出しを受けている。
所長はまだ若いのに、この町の医療の全てを任せられている。豊富な知識と魔力、それらを自在に操る高い技術に、ずば抜けた判断力を持つ彼は、ここに勤める魔術師達みんなの憧れだった。
彼の一時間は、わたしや他の魔術師達の十時間に匹敵すると言われている。それ程までに忙しく、とても有能な人だというのに。
(そんな所長に、こんな形で時間を取らせてしまうなんて……)
あまりにも面目ない。わたしはそっと俯いた。
「本当にすみません。自分でも努力はしているんです。だけど、もしも失敗したらって思うと、慎重になってしまって……」
「気持ちは分かる。誰でも初めは同じだ。
だが、君は既に一年のキャリアがあるし、これまで一度も失敗していないだろう? 勉強熱心だし、知識だって十分だ。そろそろ迷いを捨て、思い切って治療に取り組んで良い」
「はい……すみません」
「謝る必要はない。だが、反省は活かさなければ何の意味もないぞ」
所長の言葉はごもっともだ。しっかりと頭を下げつつ、顔色を窺う。
「――――分かったなら行って良い」
そう言って所長は微かに笑う。どうやら母親に魔力を送った件は不問にしてくれるらしい。
もう一度深々と頭を下げ、わたしは自分の診察室に戻った。
***
(やっぱりこの仕事、向いてなかったのかなぁ?)
心の中で自問自答をしながら、わたしは机に腕を投げ出す。
わたし達、魔術師が選べる職業はそんなに多くはない。大半の人間がヴェルナーみたいに治安を守る仕事か、わたしみたいに医療の道へと進む。他には密書の運搬を請け負ったり、教育や研究の道に進む人もいるけど、極少数派だ。
因みに、小売業や飲食店といった職業については、魔力がなくても出来るため、余程のことがない限り就くことが許されていない。
そんなわけで、体力に自信がなく、『魔術を極めよう』といった情熱も無かったわたしは、自然と医療の道に進むことになった。
だけど、医療ってのは即ち人の命を守る仕事なわけで、日々様々な判断を求められる。
つまり、優柔不断なわたしには、とっても向かない仕事だった。
(今はまだ、緊急度の低い患者さんを任せられているから良いようなものを)
いつまでも先輩たちに頼るわけにはいかない。早く独り立ちして、沢山の人を助けなきゃいけないって頭ではちゃんと分かっている。
だけど、いつかわたしのせいで命を落とす人が出てきたら――――そんな風に思うと、怖くて堪らない。どれだけ勉強をしても、訓練を積んでも、その不安が消え去ることは無かった。
(頑張らないと)
気持ちを新たに、わたしは大きく息を吐く。
と同時に、診察室の扉がノックされた。
「失礼します。患者様を一人、お通ししても良いですか? 女性の魔術師をご希望ってことなんですけど」
どれどれ、と手渡された問診表に目を通しつつ、わたしはふぅとため息を吐く。
(食欲不振に睡眠不足、眩暈や気鬱の症状、か)
これまでにも何人か診てきた症状だ。もしかしたら女性特有の悩みが原因かもしれない。だとすれば、所長や男性の魔術師ではなく、女性を指名したいという気持ちもよく分かる。
(対処法を仰ぐ必要は無いし、わたし一人で対応できそう)
「分かりました。どうぞ、お入りください」
取次の女性と入れ替わりに、件の患者さんが入ってくる。豊かなブロンドに緑色の瞳を持った、美しい女性だった。女のわたしでも、ついつい見惚れてしまう程の見事なプロポーションに、胸が詰まる程の色香。思わず言葉を失っていると、女性はニコリと、とても優雅に微笑んだ。
「イゾルデと申します。よろしくお願いいたします」
「あっ……はい、アルマと申します。よろしくお願いします」
たおやかに差し出された手のひらを思わず握る。
その瞬間、花びらを煮詰めたみたいな甘ったるい香りが鼻腔を優しく擽った。
治療用の寝台の上、横たわった子どものお腹に手をかざすと、その子は「ウッ」と唸り声をあげる。不安気な表情に、胸が痛んだ。
「痛いよね? もう少しだけ我慢できる?」
しばしの間手のひらを当て、やがてゆっくりと魔力を流し込む。すると、すぐに確かな手ごたえを感じた。
患部と原因さえ分かってしまえば、あとは簡単だ。魔法で原因を取り除き、炎症を治めるよう働きかける。空いた方の手で額の汗を拭ってやると、さっきまで真っ白だった男の子の顔に、みるみる生気が戻って来た。
「本当に、ありがとうございます」
男の子の母親が、何度も嬉しそうに頭を下げる。子どもが激しい嘔吐と下痢に悩まされていたのだから、看病する方も大変だったのだろう。くっきりと疲れの色が浮かび上がっている。
「いいえ。――――お大事になさってくださいね」
(この人の疲れが少しでも取れますように)
母親の手を握り、少しずつ、少しずつ魔力を流し込む。診療行為だと目されれば、この分まで費用が請求されてしまう。あくまでバレない程度――――偶然魔力が移ってしまったのだと言い訳できる程度に留めた。
「ありがとう、お姉ちゃん。痛いのすっかり良くなったよ」
歯抜けた顔でニカッと微笑む男の子に、わたしは穏やかに微笑み返す。屈託のない明るい笑み。なんだか幼い頃のヴェルナーを見ているみたいで、胸がほっこりと温かかった。
***
「――――70点って所だな。患部を見つけていた癖に、魔力を注ぐまでに時間が掛かりすぎている」
「はい、すみません……」
項垂れつつ謝罪を述べれば、相手は小さくため息を吐いた。
「治療は的確かつスピーディーに。アルマ、君はもっと自分に自信を持って良いと言っただろう?」
そう口にするのは、わたしが勤めている魔術診療所の所長だ。先程の診療を見られていたらしく、こうして呼び出しを受けている。
所長はまだ若いのに、この町の医療の全てを任せられている。豊富な知識と魔力、それらを自在に操る高い技術に、ずば抜けた判断力を持つ彼は、ここに勤める魔術師達みんなの憧れだった。
彼の一時間は、わたしや他の魔術師達の十時間に匹敵すると言われている。それ程までに忙しく、とても有能な人だというのに。
(そんな所長に、こんな形で時間を取らせてしまうなんて……)
あまりにも面目ない。わたしはそっと俯いた。
「本当にすみません。自分でも努力はしているんです。だけど、もしも失敗したらって思うと、慎重になってしまって……」
「気持ちは分かる。誰でも初めは同じだ。
だが、君は既に一年のキャリアがあるし、これまで一度も失敗していないだろう? 勉強熱心だし、知識だって十分だ。そろそろ迷いを捨て、思い切って治療に取り組んで良い」
「はい……すみません」
「謝る必要はない。だが、反省は活かさなければ何の意味もないぞ」
所長の言葉はごもっともだ。しっかりと頭を下げつつ、顔色を窺う。
「――――分かったなら行って良い」
そう言って所長は微かに笑う。どうやら母親に魔力を送った件は不問にしてくれるらしい。
もう一度深々と頭を下げ、わたしは自分の診察室に戻った。
***
(やっぱりこの仕事、向いてなかったのかなぁ?)
心の中で自問自答をしながら、わたしは机に腕を投げ出す。
わたし達、魔術師が選べる職業はそんなに多くはない。大半の人間がヴェルナーみたいに治安を守る仕事か、わたしみたいに医療の道へと進む。他には密書の運搬を請け負ったり、教育や研究の道に進む人もいるけど、極少数派だ。
因みに、小売業や飲食店といった職業については、魔力がなくても出来るため、余程のことがない限り就くことが許されていない。
そんなわけで、体力に自信がなく、『魔術を極めよう』といった情熱も無かったわたしは、自然と医療の道に進むことになった。
だけど、医療ってのは即ち人の命を守る仕事なわけで、日々様々な判断を求められる。
つまり、優柔不断なわたしには、とっても向かない仕事だった。
(今はまだ、緊急度の低い患者さんを任せられているから良いようなものを)
いつまでも先輩たちに頼るわけにはいかない。早く独り立ちして、沢山の人を助けなきゃいけないって頭ではちゃんと分かっている。
だけど、いつかわたしのせいで命を落とす人が出てきたら――――そんな風に思うと、怖くて堪らない。どれだけ勉強をしても、訓練を積んでも、その不安が消え去ることは無かった。
(頑張らないと)
気持ちを新たに、わたしは大きく息を吐く。
と同時に、診察室の扉がノックされた。
「失礼します。患者様を一人、お通ししても良いですか? 女性の魔術師をご希望ってことなんですけど」
どれどれ、と手渡された問診表に目を通しつつ、わたしはふぅとため息を吐く。
(食欲不振に睡眠不足、眩暈や気鬱の症状、か)
これまでにも何人か診てきた症状だ。もしかしたら女性特有の悩みが原因かもしれない。だとすれば、所長や男性の魔術師ではなく、女性を指名したいという気持ちもよく分かる。
(対処法を仰ぐ必要は無いし、わたし一人で対応できそう)
「分かりました。どうぞ、お入りください」
取次の女性と入れ替わりに、件の患者さんが入ってくる。豊かなブロンドに緑色の瞳を持った、美しい女性だった。女のわたしでも、ついつい見惚れてしまう程の見事なプロポーションに、胸が詰まる程の色香。思わず言葉を失っていると、女性はニコリと、とても優雅に微笑んだ。
「イゾルデと申します。よろしくお願いいたします」
「あっ……はい、アルマと申します。よろしくお願いします」
たおやかに差し出された手のひらを思わず握る。
その瞬間、花びらを煮詰めたみたいな甘ったるい香りが鼻腔を優しく擽った。