わたしは夫のことを、愛していないのかもしれない
6.おかえり
(一体、どうしたら良いんだろう?)
人でごった返した町を歩きながら、ぼんやりとそんなことを考える。
ヴェルナーから知らない香りがしたあの日から、もしかしたらこんな日が来るかもしれないと、心のどこかで思っていた。あまり洒落っ気のない彼が、自分で香水を買ったとは思えないし、家で使っている様子も見たことが無かったから。
(だけど、その理由を、あんな形で知ることになるなんて――――)
ヴェルナーはわたしでは無い他の女性と恋に落ちていた。相手もヴェルナーのことを好きで、二人は強く想い合っている。
『彼は……彼もわたくしのことを愛してくれている。だけど、優しいから奥様と別れることが出来ないの』
イゾルデさまの言葉が頭の中で木霊する。
彼女の言う通り、ヴェルナーは優しい。優しいから、わたしを突き放すことが出来ない。想いが移ろったことを気づかせないよう、これまで通り、わたしに愛を囁き続けているのだと思う。
(キツイだろうなぁ)
他に愛する人がいるのに――――自分の気持ちを偽るのは、一体どんな気分だろう。愛の言葉も、甘やかな触れ合いも、全部全部イゾルデさまに贈りたいだろうに。
『わたくしなら、彼の夢を叶えてあげられる。彼の能力に見合った職場や役職を用意してあげられるし、身分だってそう――――爵位が得られるよう働きかけることも出来るのに、って」
わたし達の国は実力至上主義だ。平民から将軍になり上がることも、優秀な魔術師が爵位を得ることだって出来る。
だけど、そのためにはどうしたってコネが必要だ。偉い人の目に留まらなきゃ、どんなに実力があっても上に上がることは出来ない。
ヴェルナーが今の仕事を得るために、幼い頃から努力を重ねてきたことをわたしは知っている。いつか魔術騎士団に入るんだって、キラキラと瞳を輝かせていたヴェルナー。
(イゾルデさまなら、彼の夢を叶えてあげることが出来るんだ)
それは、わたしじゃ絶対に出来ないこと。胸から血が噴き出すみたいに、痛くて苦しくて堪らない。
(わたしはどうしてヴェルナーと一緒に居るんだろう?)
初めは確かに望まれていたのかもしれない。けれど、事情はあの頃とスッカリ変わってしまった。
(お邪魔虫は、わたし)
元々、自分から望んだ結婚じゃない。恋心を知らないまま、ヴェルナーに誘われるがまま頷いただけ――――そんなわたしが、彼の隣にこのまま居続けてよいのだろうか?
『――――話を聞いてくれてありがとう。少しだけ、スッキリしたわ』
イゾルデさまはそう言って帰っていった。
本当はあの時『わたしがヴェルナーの妻なんです』と打ち明けるべきだったのだと思う。だけど、そうは出来なかった。どうしたら良いのか、自分がどうしたいのか分からなかったから。
(……帰りたくないなぁ)
雑踏の中、徐に足を止めてみる。
行き交う人々、皆が家路を急いでいる。愛する人、家族の待つその場所へ。
だけど、あの家以外にわたしの帰る場所なんてない。意味もなく涙が込み上げてきて、わたしは途方に暮れてしまった。
「――――アルマ!」
肩をポンと叩かれ、わたしはハッと振り返る。
「やっぱりアルマだ! 帰り道で会えるなんて久々だね」
屈託のない笑みを浮かべそう口にするのは、今わたしが一番会いたくない人――――ヴェルナーだった。
「今日は忙しかったの? こんな時間まで珍しいね。お疲れ様、アルマ」
さり気なく荷物を受け取りながら、ヴェルナーはわたしの手を握る。温かい言葉。いつもとちっとも変わらない温もり。だけど本当は、それを受け取るべきはわたしじゃない。
「折角だし、今日は外で食べて帰ろうか? 偶には良いだろ? 恋人同士のデートみたいでさ」
(恋人同士……)
ズキン、ズキンと胸が痛む。零れ落ちた涙をどうすれば良いのか、それすらも分からないまま、わたしは小さく首を横に振る。
「――――わたしは良いから、ヴェルナーは一人で食べて帰って」
「え? アルマ?」
握られた手のひらを振り払い、わたしは一人、夜の町を駆けだす。ヴェルナーがわたしの名前を呼ぶ声が、何度も何度も聞こえていた。
***
(結局、帰って来てしまった)
あれから数時間、わたしは家に帰ることもせず、町の中をフラフラと彷徨っていた。
一瞬だけ、診療所に戻ろうかなって考えたけど、あそこにいるとイゾルデさまとの会話が間違いなくフラッシュバックしてしまう。
荷物をヴェルナーに預けてしまったため、宿を取ることも出来なくて、わたしは仕方なく自宅の前に立ち尽くしていた。
(ビックリしただろうな、ヴェルナー)
あんな風に彼を撥ね退けたのは、初めてのことだった。驚きに目を丸くしたヴェルナーの表情が目に焼き付いていて、胸を微かに締め付ける。
(帰ってきて、良かったのかな?)
玄関の扉を開けるのが、怖くて怖くて堪らない。ここはもう、わたしの居場所じゃないんだって、そう思い知るのがとても嫌だった。自分から去るべきだって分かっているのに、今のわたしにはそれが出来ない。
意を決して扉を開くと、すぐに逞しい腕が伸びてきて、わたしをギュッと抱き寄せる。お日様に焼けた汗の匂い。目頭が一気に熱くなった。
「おかえり、アルマ」
胸の奥から何かがせり上げてくる。溢れ出る涙をそのままに、わたしはヴェルナーの胸に顔を埋めた。
人でごった返した町を歩きながら、ぼんやりとそんなことを考える。
ヴェルナーから知らない香りがしたあの日から、もしかしたらこんな日が来るかもしれないと、心のどこかで思っていた。あまり洒落っ気のない彼が、自分で香水を買ったとは思えないし、家で使っている様子も見たことが無かったから。
(だけど、その理由を、あんな形で知ることになるなんて――――)
ヴェルナーはわたしでは無い他の女性と恋に落ちていた。相手もヴェルナーのことを好きで、二人は強く想い合っている。
『彼は……彼もわたくしのことを愛してくれている。だけど、優しいから奥様と別れることが出来ないの』
イゾルデさまの言葉が頭の中で木霊する。
彼女の言う通り、ヴェルナーは優しい。優しいから、わたしを突き放すことが出来ない。想いが移ろったことを気づかせないよう、これまで通り、わたしに愛を囁き続けているのだと思う。
(キツイだろうなぁ)
他に愛する人がいるのに――――自分の気持ちを偽るのは、一体どんな気分だろう。愛の言葉も、甘やかな触れ合いも、全部全部イゾルデさまに贈りたいだろうに。
『わたくしなら、彼の夢を叶えてあげられる。彼の能力に見合った職場や役職を用意してあげられるし、身分だってそう――――爵位が得られるよう働きかけることも出来るのに、って」
わたし達の国は実力至上主義だ。平民から将軍になり上がることも、優秀な魔術師が爵位を得ることだって出来る。
だけど、そのためにはどうしたってコネが必要だ。偉い人の目に留まらなきゃ、どんなに実力があっても上に上がることは出来ない。
ヴェルナーが今の仕事を得るために、幼い頃から努力を重ねてきたことをわたしは知っている。いつか魔術騎士団に入るんだって、キラキラと瞳を輝かせていたヴェルナー。
(イゾルデさまなら、彼の夢を叶えてあげることが出来るんだ)
それは、わたしじゃ絶対に出来ないこと。胸から血が噴き出すみたいに、痛くて苦しくて堪らない。
(わたしはどうしてヴェルナーと一緒に居るんだろう?)
初めは確かに望まれていたのかもしれない。けれど、事情はあの頃とスッカリ変わってしまった。
(お邪魔虫は、わたし)
元々、自分から望んだ結婚じゃない。恋心を知らないまま、ヴェルナーに誘われるがまま頷いただけ――――そんなわたしが、彼の隣にこのまま居続けてよいのだろうか?
『――――話を聞いてくれてありがとう。少しだけ、スッキリしたわ』
イゾルデさまはそう言って帰っていった。
本当はあの時『わたしがヴェルナーの妻なんです』と打ち明けるべきだったのだと思う。だけど、そうは出来なかった。どうしたら良いのか、自分がどうしたいのか分からなかったから。
(……帰りたくないなぁ)
雑踏の中、徐に足を止めてみる。
行き交う人々、皆が家路を急いでいる。愛する人、家族の待つその場所へ。
だけど、あの家以外にわたしの帰る場所なんてない。意味もなく涙が込み上げてきて、わたしは途方に暮れてしまった。
「――――アルマ!」
肩をポンと叩かれ、わたしはハッと振り返る。
「やっぱりアルマだ! 帰り道で会えるなんて久々だね」
屈託のない笑みを浮かべそう口にするのは、今わたしが一番会いたくない人――――ヴェルナーだった。
「今日は忙しかったの? こんな時間まで珍しいね。お疲れ様、アルマ」
さり気なく荷物を受け取りながら、ヴェルナーはわたしの手を握る。温かい言葉。いつもとちっとも変わらない温もり。だけど本当は、それを受け取るべきはわたしじゃない。
「折角だし、今日は外で食べて帰ろうか? 偶には良いだろ? 恋人同士のデートみたいでさ」
(恋人同士……)
ズキン、ズキンと胸が痛む。零れ落ちた涙をどうすれば良いのか、それすらも分からないまま、わたしは小さく首を横に振る。
「――――わたしは良いから、ヴェルナーは一人で食べて帰って」
「え? アルマ?」
握られた手のひらを振り払い、わたしは一人、夜の町を駆けだす。ヴェルナーがわたしの名前を呼ぶ声が、何度も何度も聞こえていた。
***
(結局、帰って来てしまった)
あれから数時間、わたしは家に帰ることもせず、町の中をフラフラと彷徨っていた。
一瞬だけ、診療所に戻ろうかなって考えたけど、あそこにいるとイゾルデさまとの会話が間違いなくフラッシュバックしてしまう。
荷物をヴェルナーに預けてしまったため、宿を取ることも出来なくて、わたしは仕方なく自宅の前に立ち尽くしていた。
(ビックリしただろうな、ヴェルナー)
あんな風に彼を撥ね退けたのは、初めてのことだった。驚きに目を丸くしたヴェルナーの表情が目に焼き付いていて、胸を微かに締め付ける。
(帰ってきて、良かったのかな?)
玄関の扉を開けるのが、怖くて怖くて堪らない。ここはもう、わたしの居場所じゃないんだって、そう思い知るのがとても嫌だった。自分から去るべきだって分かっているのに、今のわたしにはそれが出来ない。
意を決して扉を開くと、すぐに逞しい腕が伸びてきて、わたしをギュッと抱き寄せる。お日様に焼けた汗の匂い。目頭が一気に熱くなった。
「おかえり、アルマ」
胸の奥から何かがせり上げてくる。溢れ出る涙をそのままに、わたしはヴェルナーの胸に顔を埋めた。