政略結婚は純愛のように〜完結編&番外編集〜
ラストエピソード
 赤や黄色、緑や青の色とりどりの熱帯魚の形をした乗り物が、海底を模した広い空間の中を輪になってぐるぐると回っている。

 そのひとつひとつに親子がひと組ずつ乗り込んで歓声をあげていた。

 大きくて見た目は本格的だけれど、それほど激しい動きではないから、小さな子も怖がることなく楽しめる、今年五歳の沙羅にぴったりのアトラクションだ。

 今も父親の隆之とともに黄色い熱帯魚に乗り込んで、手を上げてきゃーきゃーと嬉しそうにしている。

 由梨はよく見える位置にベビーカーを置いて彼女に手を振っていた。

 ベビーカーの中では生後七カ月になる息子の隼人が指をくわえてすやすやと眠っている。
 広大な敷地のテーマパークのちょうど中央に位置するこのエリアは、海の底を再現した屋内型のエリアで少し薄暗くてエアコンが効いている。

 彼がお昼寝をするにはもってこいの環境だ。

 しばらくすると熱帯魚のゴンドラは停止して沙羅と隆之が下りてくる。

 父親の手を握り、嬉しそうにぴょんぴょんと飛び跳ねている沙羅が可愛らしかった。

「もういっかい! もういっかい!」

 由梨のところへやってくるやいなや隆之に向かって彼女は言う。

 隆之がまたかという顔をした。

 幸いにして平日のしかも特にイベントをやっていない時期の今日は、テーマパーク自体それほど混んでいないからあまり並ばなくても乗ることができる。

 このエリアにある他のアトラクションも沙羅はひと通り楽んだ。

 そしてとりわけこの熱帯魚のぐるぐるが気に入ったようである。さっきからこの繰り返しである。

 この空間は、薄暗いだけでなく水の模様やクラゲの影がライトで表現されているし、ちゃぷんちゃぷんとそれらしい音も聴こえてくる。
 小さな彼女にしてみれば、本当に熱帯魚になって海の中を泳いでいる気分なのだろう。

 何回も乗りたがるのは、納得だ。

 でもそれに付き合う父親の方は……。

「さっき、これで最後って言ったのに……」

と肩を落としている。
 ぐるぐる回る乗り物は、子供にとっては平気でも、大人には少しきついようだ。

 沙羅に向ける笑顔がいつもよりやや引きつっているように思えるのは気のせいではないだろう。

 それでも沙羅からのお願いにはノーと言えない彼だから、

「いこう! いこう!」

と手を引く彼女に引っ張られるように歩きだそうとする。

 くすくす笑いながら、由梨はそれに待ったをかけた。

「沙羅、お父さんちょっと疲れちゃったみたい。お母さんと乗ろう? ちょうど隼人寝ちゃったし」

「うん! いいよ」

 沙羅が元気よく答えて、隆之が助かったという顔をした。

 例年よりも暑かったと言われる夏が終わりすっかり秋めいてきたこの日、由梨は家族で千葉を訪れた。
 
 隆之の随分と遅い夏休みである。

 加賀ホールディングスの傘下に入り新たなスタートを切った北部物産をしっかりと軌道に乗せた彼の存在感は、地域経済においてますます重くなっている。

 忙しくする中で、普段もなべく家族と過ごす時間をとってくれてはいるけれど、こんな風に数日間完全にオフで、家族と過ごせる機会は貴重だ。

 せっかくならば、と沙羅がずっと行きたがっていたこの日本で一番大きなテーマパークを訪れることにしたのだ。

 大好きなお父さんと、ずっと行きたかった夢の世界、沙羅が大はしゃぎなのは仕方がない。

「沙羅、今日はずっとお父さんが一緒にいてくれて嬉しいね」

 アトラクションに並びながら、由梨が沙羅にそう言うと、彼女は

「うん!」

と大きな声で答えた。

「おとうさん、今日はさらのおねがいぜーんぶきいてくれるってやくそくしたのよ」

「ええ? そうなの?」

「うん、だって今日は、さら、おとうさんのプリンセスなんだもん」

 その言葉の通り彼女はすみれ色のドレスを着て、くるくる巻いた頭の上にはちょこんとティアラを載せている。

 まるで小さなプリンセスのようだった。

 いろいろなプリンセスの世界を一度に回ることができるこのテーマパークには、訪れる子どもたちが実際にプリンセスになれる子ども専用の美容室があって、沙羅は今朝そこへ隆之と一緒に行き、プリンセスに変身した。

 大好きなプリンセスと同じドレスを着てパークを回りたいという彼女の希望を、隆之が叶えたのだ。

 はっきりいって由梨の美容室の何倍もの値段がするこのプランは、まだ小さな彼女には少し贅沢すぎると由梨は思う。

 それでなくても普段から母親として彼女の将来を考えて、贅沢や無駄遣いをさせないようにしている。

 でも隆之が彼女を甘やかすことについては極力口出しはしないようにしていた。
 
 常にシビアな判断を迫られ、重い責任を背負いながら、リーダーシップを発揮し続ける彼にとって、子どもたちとの時間がなによりの癒しになっていることを知っているからだ。

 少しくらいの甘やかし過ぎは自分がバランスを取れば問題ない。

「沙羅、プリンセスに変身させてくれたお父さんに、ちゃんとありがとうって言った?」

 尋ねると、沙羅は

「うん!」

と元気よく答える。

「ほっぺにちゅってしてあげた!」

「え? そうなの?」

 由梨は少し驚いて聞き返した。

 彼女がお父さんにキスをするのが珍しいことだからだ。

 実はこれには深いわけがある。

 もともとは彼女は寝る前や隆之が出勤する時に彼の頬にキスをする習慣があって、彼はその可愛いキスを会社にいる時からは想像もつかないほど嬉しそうに受けていた。

 でも少し前に事態は一変した。

 沙羅が保育園で仲良くしている男の子にキスをしたという事件が起きたのだ。

 いや事件というか由梨から見ればただの可愛いエピソードなのだが、それを聞きつけた隆之は深刻な顔をして、"男の子には簡単にキスをしてはいけない"と、こんこんと彼女を諭したのだ。

 由梨に似て真面目なところがある沙羅はその話を神妙な顔をして聞いていた。

 そして次の日から、隆之にもキスをしなくなったのである。

『お父さんも男の子でしょう?』

 真面目な顔でそう言って。

『いやそれはそうだけど、沙羅はお父さんのことを特別に好きだろう? 特別に好きならいいんだよ』

『でも沙羅、ゆうくんもとくべつに好きよ? ならゆうくんにもしてもいい?』

『……』

 そのやり取りを目撃した秋元は、

『大人気ないことをするからですよ』

と言って呆れかえり、由梨は笑いが止まらなかった。

 その彼女が、久しぶりにキスをしたのだから、どうしてかと由梨は理由が気になって沙羅に向かって問いかけた。

「沙羅、お父さんは男の子だからちゅうはしないんじゃなかったの?」

 すると沙羅が、ティアラの乗った頭を可愛く傾げた。

「うーん、そうなんだけど。お父さんが、今日一日は、沙羅はおとうさんのプリンセスなんだから、ちゅうしてもいいんだよって言ったのよ。プリンセスは王子様にちゅうをするでしょう?」

「ええ⁉︎ お父さん、そんなこと言ったの?」

「うん。でも沙羅がちゅうしたらおとうさん沙羅のこと、強い力でぎゅーってして、ちょっとくるしかったな」

 そう言って、可愛いほっぺを膨らませている。
 
 どうやら彼はまたまた大人げない手段で、最愛の娘から最上級のお礼を受け取っていたようだ。

 だったら、ぐるぐる回る乗り物は苦手だとしても何度も彼女に付き合うのはしかたない、助け船を出さなくてもよかったかな、由梨がそう思った時、ちょうどアトラクションの順番が回ってきた。

 由梨は沙羅と手を繋いで紫色の熱帯魚のゴンドラに乗り込んだ。

 上昇したゴンドラからは、ベビーカーの隣に立つ隆之がよく見えた。

 眠る隼人のブランケットをかけ直している。

「お父さーん!」

 沙羅が彼に向かって手を振ると、こちらに気がついて手を振り返している。

 その姿に由梨の胸がドキンと跳ねる。

 結婚して七年あまりがたっても、時折、こういうことがあった。

 高い身長に精悍な顔つき、鋭い中に優しささを湛えたアルファの瞳、黒くて上品なクセのある髪、圧倒的な存在感。

 沙羅と隼人というふたつの命を授かって父と母になった今も変わらずにドキドキとさせられる。

 いやむしろ父親として、子を慈しみ愛するその姿をなおさら愛おしく思う日々だった。

 由梨にとってこんなに素敵で完璧な旦那さまは世界中どこをどう探しても彼しかいない。

 ……でも、隣の小さなプリンセスの意見は少し違っているようだ。

「あーあ」

 沙羅が下で手を振る隆之を見て、やや残念そうに口を開いた。

「沙羅、王子様はゆうくんがよかったな。だっておとうさんは優しいけど、おとうさんなんだもの」

 その言葉に、由梨はぷっと吹き出して笑い出してしまう。

「それ、お父さんに言っちゃダメよ」

 笑いながらそう言うと、沙羅が可愛く首を傾げた。
 この旅行は沙羅の希望と由梨の要望、それからまだ小さい隼人の安全を踏まえた上で、隆之が計画しホテルやテーマパークのチケットを抑えた。その過程で彼女の美容室の予約もしていた。

 けして安くはない値段のプランを真剣な顔をして選んでいたのは、すべてこの小さなプリンセスのキスを獲得するためだったのに。

『王子様はゆうくんがよかった』

などと言われたら、がっくりしてしまうだろう。

「どうして? だってお父さんは、お母さんの王子様なんでしょう? けっこんしてるんだもの」

「それは、まぁそうだけど。お父さん、今日だけは沙羅の王子様になりなくてドレスをプレゼントしてくれたんだもの。そんなことを言ったら泣いちゃうわ」

 そう言うと沙羅は少し考えてから頷いた。

「じゃあ今日だけは沙羅、お父さんのプリンセスでいる」

「ふふふ、そうしてあげてください」

「さっきの話はないしょね、お母さん」

「はい、わかりました」

 母娘が微笑み合った時、ゆっくりとゴンドラが停止した。
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