『政略結婚は純愛のように』番外編集
隆之パパの長い1日
少し汗ばむ額にそっと手をあてると、すぐに高熱だとわかるほど熱かった。
隆之は眉を寄せる。
「すみません……」
布団の中で横になっている由梨が掠れた声で謝った。
「謝ることじゃないよ」
隆之はそう答えるが、彼女は申し訳なさそうな表情のままだった。
目は潤み呼吸も少し乱れている。見るからにつらそうな彼女の姿に、心配で胸が痛んだ。
早朝に往診にきてもらった加賀家のかかりつけ医は、感染症などではなく、疲れからくる風邪だろうと診断した。
感染症でないなら、ふたりの子供を育てる家庭としては一安心。だが夫としては、申し訳なくて不甲斐なかった。
ここのところ仕事が忙しく、つい彼女に家のことを任せきりにしていたことを反省した。
「とにかくゆっくり休んでくれ。家のことは俺に任せて。時々様子を見にくるけど、なにかあったらメッセージを入れて」
頭をなでてそう言うと、彼女はゆっくり目を閉じて、すぐに寝息を立てはじめる。
枕元にスマホと飲み物を用意してから隆之は部屋を出た。
リビングへ戻ると、沙羅が不安そうに朝ごはんのリンゴをかじっていた。隣で隼人がバウンサーに座りユラユラとしている。彼もやはりどこか不安そうだ。
母がいないのを不思議に思っているのだろう。
由梨が発熱したのは昨夜の夜遅く。彼女はすぐにリビングから少し離れた使っていない和室へ移動した。
子どもたちからしてみれば、いつものように眠りについたのに目が覚めたら母がいなかったという状況だ。
いつもと違う朝に戸惑っているのだろう。
「お母さん、お熱が出たんだ。元気になるまでは別の部屋で寝るよ。ゆっくり寝かせてあげないと」
優しく説明すると、沙羅がこくんと頷いた。
「じゃあ、今日はプリンセスごっこはやめにする」
隆之はふっと笑って彼女の頭をなでた。
「ありがとう」
由梨が寝ている部屋は、リビングからは少し離れている。だから本当なら子どもたちが多少騒ぐくらいは大丈夫なはず。
だが沙羅のプリンセスごっこは別だった。
少し前に、家族旅行で行ったテーマパークのパレードをまねた遊びだからだ。音楽を大音量で流して、ソファの上に立ち、あの日のプリンセスと同じ振る舞いをする。
ドアを開ければ由梨の部屋まで音が届くだろう。
「うまうまうまうま!」
バウンサーに座る隼人がゆらゆらしながら声をあげた。
「ああ、そうだな。まんまだ」
隼人も朝ごはんの時間だ。
離乳食は順調で、最近はなんでも食べたがる。隣で姉がパンやりんごを美味しそうにかじってるのを見て待ちきれなくなったのだろう。
隆之は冷凍庫から由梨が作りおきしてくれている隼人の離乳食を取り出す。温めて食べさせていると、入れ替わるように沙羅が食べ終わった。
「お父さん、テレビ見てもいい?」
「先に着替えてて。そしたら出発まで観てていいよ」
そんなやり取りをしながら、沙羅が保育園へ行く準備が整う。
持ち物は昨日由梨が準備しておいてくれたから、服を着替えて顔を洗うくらいだが自分でできるようになったのが頼もしい。
隼人の朝ごはんが終わり着替えさせたら、沙羅の隣へ連れて行く。
着ぐるみが体操をしている子ども番組を、ふたりが見ている間に、隆之は自分の準備に取りかかった。
由梨の発熱を受けて、隆之は今日の仕事のほとんどをリモートに切り替えた。
だから午後は家にいられる。
だが午前中に一件だけ、どうしても自分が行かなくてはならない商談がある。
あと少ししたら秋元が来るから隼人を任せて沙羅を保育園に送ることになっていた。
ネクタイを締めながら鏡ごしに時計を見ると八時を回っている。
いつもなら、七時半には保育園へ出発するのに、三十分も遅れてるということだ。
言うまでもなく、由梨不在の中、隆之ひとりで準備をしたからだろう。
普段からやれることはやるようにしているつもりだが、こうなってみると、どれだけ由梨がやってくれてるかを実感する。
さっきのつらそうにしていた由梨を思い出して胸が痛んだ。
こうなるまで気がつかなかったのが情けない。
ジャケットを着たところで、リビングのドアが開いて秋元が現れた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。急で申し訳ない」
隆之はすぐに謝った。
本当は彼女は今日は休みだったのだ。だが由梨が発熱したから、商談がある午前中だけ来てもらうことにした。
「あきもばあばー!」
沙羅がすぐに気がついて秋元に飛びついた。
「おはようございます、沙羅ちゃん」
秋元がギュッと抱きしめた。
隼人はテレビに夢中である。
「それで由梨さんは?」
「風邪だって診断だったよ。疲れが出たんじゃないかって……」
隆之からの報告に秋元は渋い表情になった。
「小さな子がふたりもいるんですから、疲れが溜まっていたのでしょう。由梨さん、頑張り屋さんですから、無理なさっているんですよ」
そしてジロリと隆之を睨む。
夫である隆之の彼女に対する労りと気遣いが足りてないと言いたいのだ、
「……わかってるよ」
気まずい思いで隆之は答えた。
わざわざ言われなくても深く反省していたところだ。
子どもたちと過ごす朝の一コマでも、どれだけ彼女が動いているのかを実感したところなのだから。
「今から沙羅を保育園に連れて行くから、隼人を見ててくれ。午後の早い時間には戻れる」
「由梨さんはなにか食べられそうですか?」
「どうかな……かなりつらそうで今は眠ってるから午前中は起きないかもしれない。帰ったら俺がなにか作るよ。なにかあれば俺にメッセージが入るから連絡する」
家のことを秋元に引き継いで、隆之は自分のカバンと沙羅の保育園バックを持つ。
テレビを見ている隼人のところへ行く。
「いい子にしてるんだぞ。昼には帰ってくるからな」
抱き上げて頬にキスすると、彼は「あっぶー!」と答えた。
「じゃあ行ってくる。沙羅、おいで」
隼人を秋元に任せて隆之は玄関を出た。
庭を横切り駐車場へ向かう。
普段は運転手付きの会社の車で出社する。だが今日は保育園へ寄るから自家用車を使うことにして送迎は断ったのだ。
チャイルドシートに沙羅を座らせ、発進すると沙羅が心配そうに問いかけた。
「お母さん、沙羅がほいくえんからかえったら元気になる?」
「どうかな。今日はまだ無理かも。だけど必ず元気になるよ」
隆之は彼女を安心させるようにそう言った。
沙羅の保育園は、隆之と由梨が結婚式を挙げた加賀家の菩提寺に併設されている歴史ある保育園だ。
大きなクヌギの木が見守る園庭で、他の園児たち親子が登園している。
沙羅の手を繋ぎ園庭を歩く隆之をチラチラと見ているように思えるのは気のせいではないだろう。
毎日沙羅は由梨と登園する。今日は隆之だから珍しく思われているのだ。
「あら? 加賀さん」
境内の掃き掃除をしている年配の女性が、隆之に気がついた。
住職の妻で保育園の園長でもある彼女は、隆之の古くからの知り合いだ。
掃き掃除の手を止めてこちらへやってきた。
「沙羅ちゃん、おはよう」
「えんちょーせんせい、おはようございます!」
沙羅が元気よく答えた。
「今日はパパと一緒に登園なのね」
「妻が体調を崩してるんです」
隆之が言うと、園長は眉を寄せた。
「まぁ……それで具合は?」
「感染症などではなく風邪だという診断でした」
保育園に子を通わせている親としての気遣いで、隆之は由梨の発熱の原因を伝える。
園長が険しい表情になった。
「疲れが溜まっていたんでしょうね。由梨さん、すごく頑張り屋さんだから」
結婚式で顔を合わせ、それからも菩提寺と檀家という関係から、由梨と園長は沙羅を通わせる前からの付き合いだ。
「園が主催するボランティア活動にも積極的に参加してくださるのよ。ありがたいはありがたいんだけど、まだ隼人くんは小さいから無理しないでといつも言ってるんだけど。『他のママと違って私は育休中ですから』って言って……」
由梨らしいと隆之は思う。
いつも彼女は、自分より周りのことを先に考える。
だが、それらが本人も気がつかないうちに負担になっていたのだろう。
園長がため息をついた。
「私も他所からこの町へ来てこの寺に嫁いだから、同じような立場にいる由梨さんの気持ちはわかりすぎるくらいわかります。名家に嫁いだ嫁って、常に周りから見られててね、絶対に下手な振る舞いはできないの。いつも気を張っていたわ」
頬に手を当ててぶつぶつ言う。
そして隆之を睨んだ。
「本当なら、夫がその妻の立場に気を配り、妻に負担がかからぬように調整するべきだと私は思います」
つまりは隆之の配慮が足りず、由梨に負担がかかっていたのではないかと言っているのだ。
娘が通う保育園の園長としてはやや踏み込みすぎの言葉だが、彼女は隆之の幼い頃から顔見知りで加賀家の法事で走り回り叱られたのを知っているくらいの仲。そんな関係だからこその苦言だ。
そのくらい由梨を気にかけてくれているということだ。
由梨も彼女にはなにかと相談に乗ってもらっていると言っていた。
「それに……」
と、園長が言いかけた時。
「あー!」
沙羅が声をあげる。
隆之の手を振り解きクヌギの木の下へ走っていく。しゃがみ込み何かを拾って戻ってきた。
「お父さん、見て見て、すっごく太っちょのどんぐりだよ! つやつや〜!」
太陽のような笑顔で大きなどんぐりを隆之に見せた。
「おっ! すごくおっきいな」
隆之も笑顔で答える。
沙羅の笑顔は隆之にとって『特別』という言葉では言い表せないものだ。
どんなに忙しく厳しい状況に立たされている時も、子どもたちの声を耳にして無邪気な笑顔を見るだけで心が温かいもので満たされる。
また明日も頑張ろうという活力をもらえるのだ。
結婚というものに興味が持てず、一生独り身だと思っていた頃の自分には、考えられないことだった。
そしてそれはすべて、由梨に出会い彼女を愛した結果なのだ。
「ねぇ、お父さん、沙羅これお家に持って帰りたい。沙羅が帰るまで預かってて。絶対になくさないでよ」
「わかった、わかった」
小さな手が差し出すどんぐりを隆之は受け取り、ジャケットの内ポケットに大切にしまう。
園長に向き直った。
「園長先生。さっきの話、肝に銘じます」
言葉に力を込めてそう言うと、園長がよくできましたというかのようににっこりと微笑んだ。
「由梨さん、早くよくなるといいわね」
隆之は眉を寄せる。
「すみません……」
布団の中で横になっている由梨が掠れた声で謝った。
「謝ることじゃないよ」
隆之はそう答えるが、彼女は申し訳なさそうな表情のままだった。
目は潤み呼吸も少し乱れている。見るからにつらそうな彼女の姿に、心配で胸が痛んだ。
早朝に往診にきてもらった加賀家のかかりつけ医は、感染症などではなく、疲れからくる風邪だろうと診断した。
感染症でないなら、ふたりの子供を育てる家庭としては一安心。だが夫としては、申し訳なくて不甲斐なかった。
ここのところ仕事が忙しく、つい彼女に家のことを任せきりにしていたことを反省した。
「とにかくゆっくり休んでくれ。家のことは俺に任せて。時々様子を見にくるけど、なにかあったらメッセージを入れて」
頭をなでてそう言うと、彼女はゆっくり目を閉じて、すぐに寝息を立てはじめる。
枕元にスマホと飲み物を用意してから隆之は部屋を出た。
リビングへ戻ると、沙羅が不安そうに朝ごはんのリンゴをかじっていた。隣で隼人がバウンサーに座りユラユラとしている。彼もやはりどこか不安そうだ。
母がいないのを不思議に思っているのだろう。
由梨が発熱したのは昨夜の夜遅く。彼女はすぐにリビングから少し離れた使っていない和室へ移動した。
子どもたちからしてみれば、いつものように眠りについたのに目が覚めたら母がいなかったという状況だ。
いつもと違う朝に戸惑っているのだろう。
「お母さん、お熱が出たんだ。元気になるまでは別の部屋で寝るよ。ゆっくり寝かせてあげないと」
優しく説明すると、沙羅がこくんと頷いた。
「じゃあ、今日はプリンセスごっこはやめにする」
隆之はふっと笑って彼女の頭をなでた。
「ありがとう」
由梨が寝ている部屋は、リビングからは少し離れている。だから本当なら子どもたちが多少騒ぐくらいは大丈夫なはず。
だが沙羅のプリンセスごっこは別だった。
少し前に、家族旅行で行ったテーマパークのパレードをまねた遊びだからだ。音楽を大音量で流して、ソファの上に立ち、あの日のプリンセスと同じ振る舞いをする。
ドアを開ければ由梨の部屋まで音が届くだろう。
「うまうまうまうま!」
バウンサーに座る隼人がゆらゆらしながら声をあげた。
「ああ、そうだな。まんまだ」
隼人も朝ごはんの時間だ。
離乳食は順調で、最近はなんでも食べたがる。隣で姉がパンやりんごを美味しそうにかじってるのを見て待ちきれなくなったのだろう。
隆之は冷凍庫から由梨が作りおきしてくれている隼人の離乳食を取り出す。温めて食べさせていると、入れ替わるように沙羅が食べ終わった。
「お父さん、テレビ見てもいい?」
「先に着替えてて。そしたら出発まで観てていいよ」
そんなやり取りをしながら、沙羅が保育園へ行く準備が整う。
持ち物は昨日由梨が準備しておいてくれたから、服を着替えて顔を洗うくらいだが自分でできるようになったのが頼もしい。
隼人の朝ごはんが終わり着替えさせたら、沙羅の隣へ連れて行く。
着ぐるみが体操をしている子ども番組を、ふたりが見ている間に、隆之は自分の準備に取りかかった。
由梨の発熱を受けて、隆之は今日の仕事のほとんどをリモートに切り替えた。
だから午後は家にいられる。
だが午前中に一件だけ、どうしても自分が行かなくてはならない商談がある。
あと少ししたら秋元が来るから隼人を任せて沙羅を保育園に送ることになっていた。
ネクタイを締めながら鏡ごしに時計を見ると八時を回っている。
いつもなら、七時半には保育園へ出発するのに、三十分も遅れてるということだ。
言うまでもなく、由梨不在の中、隆之ひとりで準備をしたからだろう。
普段からやれることはやるようにしているつもりだが、こうなってみると、どれだけ由梨がやってくれてるかを実感する。
さっきのつらそうにしていた由梨を思い出して胸が痛んだ。
こうなるまで気がつかなかったのが情けない。
ジャケットを着たところで、リビングのドアが開いて秋元が現れた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。急で申し訳ない」
隆之はすぐに謝った。
本当は彼女は今日は休みだったのだ。だが由梨が発熱したから、商談がある午前中だけ来てもらうことにした。
「あきもばあばー!」
沙羅がすぐに気がついて秋元に飛びついた。
「おはようございます、沙羅ちゃん」
秋元がギュッと抱きしめた。
隼人はテレビに夢中である。
「それで由梨さんは?」
「風邪だって診断だったよ。疲れが出たんじゃないかって……」
隆之からの報告に秋元は渋い表情になった。
「小さな子がふたりもいるんですから、疲れが溜まっていたのでしょう。由梨さん、頑張り屋さんですから、無理なさっているんですよ」
そしてジロリと隆之を睨む。
夫である隆之の彼女に対する労りと気遣いが足りてないと言いたいのだ、
「……わかってるよ」
気まずい思いで隆之は答えた。
わざわざ言われなくても深く反省していたところだ。
子どもたちと過ごす朝の一コマでも、どれだけ彼女が動いているのかを実感したところなのだから。
「今から沙羅を保育園に連れて行くから、隼人を見ててくれ。午後の早い時間には戻れる」
「由梨さんはなにか食べられそうですか?」
「どうかな……かなりつらそうで今は眠ってるから午前中は起きないかもしれない。帰ったら俺がなにか作るよ。なにかあれば俺にメッセージが入るから連絡する」
家のことを秋元に引き継いで、隆之は自分のカバンと沙羅の保育園バックを持つ。
テレビを見ている隼人のところへ行く。
「いい子にしてるんだぞ。昼には帰ってくるからな」
抱き上げて頬にキスすると、彼は「あっぶー!」と答えた。
「じゃあ行ってくる。沙羅、おいで」
隼人を秋元に任せて隆之は玄関を出た。
庭を横切り駐車場へ向かう。
普段は運転手付きの会社の車で出社する。だが今日は保育園へ寄るから自家用車を使うことにして送迎は断ったのだ。
チャイルドシートに沙羅を座らせ、発進すると沙羅が心配そうに問いかけた。
「お母さん、沙羅がほいくえんからかえったら元気になる?」
「どうかな。今日はまだ無理かも。だけど必ず元気になるよ」
隆之は彼女を安心させるようにそう言った。
沙羅の保育園は、隆之と由梨が結婚式を挙げた加賀家の菩提寺に併設されている歴史ある保育園だ。
大きなクヌギの木が見守る園庭で、他の園児たち親子が登園している。
沙羅の手を繋ぎ園庭を歩く隆之をチラチラと見ているように思えるのは気のせいではないだろう。
毎日沙羅は由梨と登園する。今日は隆之だから珍しく思われているのだ。
「あら? 加賀さん」
境内の掃き掃除をしている年配の女性が、隆之に気がついた。
住職の妻で保育園の園長でもある彼女は、隆之の古くからの知り合いだ。
掃き掃除の手を止めてこちらへやってきた。
「沙羅ちゃん、おはよう」
「えんちょーせんせい、おはようございます!」
沙羅が元気よく答えた。
「今日はパパと一緒に登園なのね」
「妻が体調を崩してるんです」
隆之が言うと、園長は眉を寄せた。
「まぁ……それで具合は?」
「感染症などではなく風邪だという診断でした」
保育園に子を通わせている親としての気遣いで、隆之は由梨の発熱の原因を伝える。
園長が険しい表情になった。
「疲れが溜まっていたんでしょうね。由梨さん、すごく頑張り屋さんだから」
結婚式で顔を合わせ、それからも菩提寺と檀家という関係から、由梨と園長は沙羅を通わせる前からの付き合いだ。
「園が主催するボランティア活動にも積極的に参加してくださるのよ。ありがたいはありがたいんだけど、まだ隼人くんは小さいから無理しないでといつも言ってるんだけど。『他のママと違って私は育休中ですから』って言って……」
由梨らしいと隆之は思う。
いつも彼女は、自分より周りのことを先に考える。
だが、それらが本人も気がつかないうちに負担になっていたのだろう。
園長がため息をついた。
「私も他所からこの町へ来てこの寺に嫁いだから、同じような立場にいる由梨さんの気持ちはわかりすぎるくらいわかります。名家に嫁いだ嫁って、常に周りから見られててね、絶対に下手な振る舞いはできないの。いつも気を張っていたわ」
頬に手を当ててぶつぶつ言う。
そして隆之を睨んだ。
「本当なら、夫がその妻の立場に気を配り、妻に負担がかからぬように調整するべきだと私は思います」
つまりは隆之の配慮が足りず、由梨に負担がかかっていたのではないかと言っているのだ。
娘が通う保育園の園長としてはやや踏み込みすぎの言葉だが、彼女は隆之の幼い頃から顔見知りで加賀家の法事で走り回り叱られたのを知っているくらいの仲。そんな関係だからこその苦言だ。
そのくらい由梨を気にかけてくれているということだ。
由梨も彼女にはなにかと相談に乗ってもらっていると言っていた。
「それに……」
と、園長が言いかけた時。
「あー!」
沙羅が声をあげる。
隆之の手を振り解きクヌギの木の下へ走っていく。しゃがみ込み何かを拾って戻ってきた。
「お父さん、見て見て、すっごく太っちょのどんぐりだよ! つやつや〜!」
太陽のような笑顔で大きなどんぐりを隆之に見せた。
「おっ! すごくおっきいな」
隆之も笑顔で答える。
沙羅の笑顔は隆之にとって『特別』という言葉では言い表せないものだ。
どんなに忙しく厳しい状況に立たされている時も、子どもたちの声を耳にして無邪気な笑顔を見るだけで心が温かいもので満たされる。
また明日も頑張ろうという活力をもらえるのだ。
結婚というものに興味が持てず、一生独り身だと思っていた頃の自分には、考えられないことだった。
そしてそれはすべて、由梨に出会い彼女を愛した結果なのだ。
「ねぇ、お父さん、沙羅これお家に持って帰りたい。沙羅が帰るまで預かってて。絶対になくさないでよ」
「わかった、わかった」
小さな手が差し出すどんぐりを隆之は受け取り、ジャケットの内ポケットに大切にしまう。
園長に向き直った。
「園長先生。さっきの話、肝に銘じます」
言葉に力を込めてそう言うと、園長がよくできましたというかのようににっこりと微笑んだ。
「由梨さん、早くよくなるといいわね」