『政略結婚は純愛のように』番外編集
車窓を流れる景色をチラリと見て、隆之は手にしていたタブレットの画面を閉じた。もうすぐ目的地に着く。
助手席の長坂が口を開いた。
「社長、もうまもなく錦戸会長のご自宅へ到着します。こちらに会長がお好きなお酒を準備しております」
彼女の手元には紙袋を見て、隆之は眉を上げた。
「手に入ったのか。幻の……と言われている日本酒なんだろう?」
「はい。なんとか」
さすがだな、と隆之は舌を巻いた。
父の代から秘書を務めてもらっていた蜂須賀が定年退職したあと、隆之は彼女を秘書室長に昇進させた。
加賀ホールディングスはどちらかというと古い体質が残る企業。
グループ全体で見ても、女性の秘書室長は初めてだった。
反対の意見がなかったわけではないが、隆之はそれを押し切った。
それが会社にとって最善だという確信があったからだ。
あれから数年。予想通り、彼女の手腕は完璧だ。もはや会社にとってなくてはならない存在だ。
「ありがとう、助かるよ」
「ですが気休めにしかならないような……会長は物に釣られる方ではなでしょうし」
難しい顔で長坂は言う。
隆之は無言で頷いた。
これから隆之が商談に臨むのは一筋縄ではいかない相手だ。そもそもこうして直接会うのも、交渉をはじめてから半年前たつというのに、今日がはじめてというくらいだった。
幻の酒もないよりある方がいいというくらいだろう。
そんな話をするうちに、車が静かに停車する。
この街の中でも静かなエリアにある日本庭園に囲まれた邸宅が、錦戸会長の自宅である。
*
錦鯉が泳ぐ池にかかる橋、美しい日本庭園望む和室で、隆之は錦戸を待っている。
この取引、互いに条件としてはいいはずだ。が、なかなか相手側が首を縦に振らないのは錦戸会長がネックになっているという。
漏れ聞いたところによると、大企業の社長としてはまだ若い隆之が率いている会社が相手では不安だとこぼしているようだ。
「失礼いたします」
声がして襖が静かに開く。
杖をついた厳しい雰囲気の高齢の男性が現れた。
隆之は立ち上がり彼に向かって一礼した。
「本日はお時間をいただきましてありがとうございます」
相手は眉ひとつ動かさずに、射抜くような視線で隆之を見ている。
目先の利益より人情を重んじることで有名な人物だ。隆之が取引をするに値する人物か見定めている。
それをひしひしと感じながら、自己紹介のため名刺入れを取り出そうとしたところ、一緒に何かが溢れ落ち、床の上を転がる。止める間もなく会長の足元までいってしまう。
しまったと隆之は思う。
コロコロ転がった物の正体は沙羅から預かったどんぐりだった。
朝預かって、内ポケットに入れたのがそのままになっていた。
会長がどんぐりを拾い上げ、白い眉を上げて口を開いた。
「どんぐりを手土産にいただいたのははじめてだ」
「申し訳ありません、会長。それは手土産ではございません……娘から預かった物です」
気まずい思いになりながら、隆之が答えると、その内容に会長が反応する。
「娘さんから預かった? もらったのではなく?」
「はい……今朝、保育園へ送っていった際に園庭で拾いまして……」
イレギュラーな出来事に、さすがに少し動揺して隆之はどんぐりがここにある経緯をすべて正直に話してしまう。
錦戸会長の表情が緩んだ。
「保育園……娘さんはおいくつかな?」
「五歳です」
「なら、わしの孫と同じ歳だな」
そう言ってどんぐりを隆之に差し出した。
「ありがとうございます」
受け取り、隆之はまたそれを大事に内ポケットにしまった。
「どちらの保育園へ通っておられるのかな」
「浄断寺に併設されているはぐくみ保育園です」
「おお、あそこは長男の子が通っていましたよ。今は娘の方針で……」
会長が白い眉を下げて嬉しそうに話しはじめた。
*
バタンとドアが閉まり、車が静かに発車する。
錦戸会長宅が見えなくなったのを確認して、隆之はホッと息を吐いた。
「沙羅ちゃんにお土産を買ってかえらないと……ですね」
助手席の長坂が言う。
隆之はふっと笑った。
「ああ、そうだな」
商談は、当初予定していたよりもスムーズにまとまった。
どんぐりコロコロをきっかけに会長の態度が目に見えて軟化したからである。
聞くところによると、今は第一線を退いている会長は、同居中の孫の成長が楽しみなのだという。
家で遊ぶだけでなく、幼稚園や学校の行事にも顔を出すというから驚きだ。
今朝保育園へ娘を送ってきたばかりの隆之に親近感を覚えたのだろうか。
孫がいかにかわいいか、彼らと遊ぶのがどれだけ楽しみか、話がつきることはなかった。
「社長、このままご自宅へお送りいたします。本社にある社長のお車は後ほどご自宅へ運転手がお届けします」
「ありがとう、そうしてくれると助かるよ」
時刻は十二時を回っている。本来は休みの秋元にいてもらっているのだ。なるべく早く帰りたい。
なにより由梨の様子が気になった。
「由梨さんはどうですか? 発熱とお聞きしましたが、インフルエンザかなにかですか?」
長坂が心配そうに尋ねた。
「いやそういうのではなく、疲労からくる風邪のようだ」
隆之が答えると、彼女は振り返り隆之を睨んだ。
秘書としてではなく、友人としての振る舞いだ。
「……言いたいことはわかってる」
彼女がなにか言う前に隆之は答えた。
長坂が疑わしげに目を細めた。
「そうですか。ならいいですが。世の中には、育児より仕事の方が大変だと勘違いしている夫がいるようで、それが夫婦の溝になることも多いようですよ」
「……くわしいな」
「はい。私自身は結婚するつもりはありませんが、秘書室の部下たちは皆そういう年代ですから。上司としては育休明けの部下の事情もしっかり把握しておかないと」
「……さすがだな。助かるよ」
だんだんとやり取りが、社長と秘書というよりは、友人同士のそれになってくる。
だが運転手は慣れたもので平然としていた。
「由梨さんは、頑張り屋さんだから、疲れていても言い出せないんでしょう。それに気づかず、旦那はのほほんとして……」
「それについては反省してる。だからこそ、午後はリモートに切り替えたんだろう」
痛いところを突かれて、やや不機嫌に答えると、それを長坂が鼻で笑った。
「どうだか。社長、わが社でも男性社員の育休取得を推進中ですが、女性社員から懐疑的な意見があるのをご存知ですか? 正式な報告書としては上がっていない社食の雑談程度のものですが」
「……いや、把握していない」
「夫が育休を取得して意味があるのか?という意見です。彼女たちに言わせると男性の中には育児をなにかの片手間にできるようなものだと思っている人がいるようです。命を育てているのだという責任感に欠けると」
長坂が隆之を睨む。
その視線に、彼女の言いたいことを正確に理解した隆之は、目を閉じてため息をついた。
今日は朝から反省しっぱなしだったが、まだ足りなかったようだ。
相変わらずの言い方だが、内容についてはもっともだ。
「午後のリモートワークは中止だ。俺はこのまま退社する」
予定の変更を告げると、長坂がよくできましたというように、頷いた。
「かしこまりました、社長」
助手席の長坂が口を開いた。
「社長、もうまもなく錦戸会長のご自宅へ到着します。こちらに会長がお好きなお酒を準備しております」
彼女の手元には紙袋を見て、隆之は眉を上げた。
「手に入ったのか。幻の……と言われている日本酒なんだろう?」
「はい。なんとか」
さすがだな、と隆之は舌を巻いた。
父の代から秘書を務めてもらっていた蜂須賀が定年退職したあと、隆之は彼女を秘書室長に昇進させた。
加賀ホールディングスはどちらかというと古い体質が残る企業。
グループ全体で見ても、女性の秘書室長は初めてだった。
反対の意見がなかったわけではないが、隆之はそれを押し切った。
それが会社にとって最善だという確信があったからだ。
あれから数年。予想通り、彼女の手腕は完璧だ。もはや会社にとってなくてはならない存在だ。
「ありがとう、助かるよ」
「ですが気休めにしかならないような……会長は物に釣られる方ではなでしょうし」
難しい顔で長坂は言う。
隆之は無言で頷いた。
これから隆之が商談に臨むのは一筋縄ではいかない相手だ。そもそもこうして直接会うのも、交渉をはじめてから半年前たつというのに、今日がはじめてというくらいだった。
幻の酒もないよりある方がいいというくらいだろう。
そんな話をするうちに、車が静かに停車する。
この街の中でも静かなエリアにある日本庭園に囲まれた邸宅が、錦戸会長の自宅である。
*
錦鯉が泳ぐ池にかかる橋、美しい日本庭園望む和室で、隆之は錦戸を待っている。
この取引、互いに条件としてはいいはずだ。が、なかなか相手側が首を縦に振らないのは錦戸会長がネックになっているという。
漏れ聞いたところによると、大企業の社長としてはまだ若い隆之が率いている会社が相手では不安だとこぼしているようだ。
「失礼いたします」
声がして襖が静かに開く。
杖をついた厳しい雰囲気の高齢の男性が現れた。
隆之は立ち上がり彼に向かって一礼した。
「本日はお時間をいただきましてありがとうございます」
相手は眉ひとつ動かさずに、射抜くような視線で隆之を見ている。
目先の利益より人情を重んじることで有名な人物だ。隆之が取引をするに値する人物か見定めている。
それをひしひしと感じながら、自己紹介のため名刺入れを取り出そうとしたところ、一緒に何かが溢れ落ち、床の上を転がる。止める間もなく会長の足元までいってしまう。
しまったと隆之は思う。
コロコロ転がった物の正体は沙羅から預かったどんぐりだった。
朝預かって、内ポケットに入れたのがそのままになっていた。
会長がどんぐりを拾い上げ、白い眉を上げて口を開いた。
「どんぐりを手土産にいただいたのははじめてだ」
「申し訳ありません、会長。それは手土産ではございません……娘から預かった物です」
気まずい思いになりながら、隆之が答えると、その内容に会長が反応する。
「娘さんから預かった? もらったのではなく?」
「はい……今朝、保育園へ送っていった際に園庭で拾いまして……」
イレギュラーな出来事に、さすがに少し動揺して隆之はどんぐりがここにある経緯をすべて正直に話してしまう。
錦戸会長の表情が緩んだ。
「保育園……娘さんはおいくつかな?」
「五歳です」
「なら、わしの孫と同じ歳だな」
そう言ってどんぐりを隆之に差し出した。
「ありがとうございます」
受け取り、隆之はまたそれを大事に内ポケットにしまった。
「どちらの保育園へ通っておられるのかな」
「浄断寺に併設されているはぐくみ保育園です」
「おお、あそこは長男の子が通っていましたよ。今は娘の方針で……」
会長が白い眉を下げて嬉しそうに話しはじめた。
*
バタンとドアが閉まり、車が静かに発車する。
錦戸会長宅が見えなくなったのを確認して、隆之はホッと息を吐いた。
「沙羅ちゃんにお土産を買ってかえらないと……ですね」
助手席の長坂が言う。
隆之はふっと笑った。
「ああ、そうだな」
商談は、当初予定していたよりもスムーズにまとまった。
どんぐりコロコロをきっかけに会長の態度が目に見えて軟化したからである。
聞くところによると、今は第一線を退いている会長は、同居中の孫の成長が楽しみなのだという。
家で遊ぶだけでなく、幼稚園や学校の行事にも顔を出すというから驚きだ。
今朝保育園へ娘を送ってきたばかりの隆之に親近感を覚えたのだろうか。
孫がいかにかわいいか、彼らと遊ぶのがどれだけ楽しみか、話がつきることはなかった。
「社長、このままご自宅へお送りいたします。本社にある社長のお車は後ほどご自宅へ運転手がお届けします」
「ありがとう、そうしてくれると助かるよ」
時刻は十二時を回っている。本来は休みの秋元にいてもらっているのだ。なるべく早く帰りたい。
なにより由梨の様子が気になった。
「由梨さんはどうですか? 発熱とお聞きしましたが、インフルエンザかなにかですか?」
長坂が心配そうに尋ねた。
「いやそういうのではなく、疲労からくる風邪のようだ」
隆之が答えると、彼女は振り返り隆之を睨んだ。
秘書としてではなく、友人としての振る舞いだ。
「……言いたいことはわかってる」
彼女がなにか言う前に隆之は答えた。
長坂が疑わしげに目を細めた。
「そうですか。ならいいですが。世の中には、育児より仕事の方が大変だと勘違いしている夫がいるようで、それが夫婦の溝になることも多いようですよ」
「……くわしいな」
「はい。私自身は結婚するつもりはありませんが、秘書室の部下たちは皆そういう年代ですから。上司としては育休明けの部下の事情もしっかり把握しておかないと」
「……さすがだな。助かるよ」
だんだんとやり取りが、社長と秘書というよりは、友人同士のそれになってくる。
だが運転手は慣れたもので平然としていた。
「由梨さんは、頑張り屋さんだから、疲れていても言い出せないんでしょう。それに気づかず、旦那はのほほんとして……」
「それについては反省してる。だからこそ、午後はリモートに切り替えたんだろう」
痛いところを突かれて、やや不機嫌に答えると、それを長坂が鼻で笑った。
「どうだか。社長、わが社でも男性社員の育休取得を推進中ですが、女性社員から懐疑的な意見があるのをご存知ですか? 正式な報告書としては上がっていない社食の雑談程度のものですが」
「……いや、把握していない」
「夫が育休を取得して意味があるのか?という意見です。彼女たちに言わせると男性の中には育児をなにかの片手間にできるようなものだと思っている人がいるようです。命を育てているのだという責任感に欠けると」
長坂が隆之を睨む。
その視線に、彼女の言いたいことを正確に理解した隆之は、目を閉じてため息をついた。
今日は朝から反省しっぱなしだったが、まだ足りなかったようだ。
相変わらずの言い方だが、内容についてはもっともだ。
「午後のリモートワークは中止だ。俺はこのまま退社する」
予定の変更を告げると、長坂がよくできましたというように、頷いた。
「かしこまりました、社長」