愛憎を込めて毒を撃つ

第十三話

◆一か月後(十月中旬)
〇新村家の玄関ホール(昼)

離婚を切り出した一週間後から実家に帰っていた里乃が、すべての荷物を引き取りに来る。
業者に段ボールをお願いしたあと、がらんとした部屋を見ていた和寿が里乃の傍へ。
里乃の手には離婚届の入った封筒がある。
里乃の希望で、離婚届は里乃自身が提出することになった。

和寿「……就活、上手くいくといいな。しばらくは実家にいるのか?」
里乃「就活が落ち着いたら実家は出るよ。両親は『ずっといてもいい』って言ってくれてるけど、お互いに気を遣っちゃうから……」
和寿「そうか……」

里乃と和寿の雰囲気はどこか余所余所しい。

里乃「もう行くね。じゃあ、元気で」
和寿「……っ! 里乃、本当にすまなかった!」
里乃「……」
和寿「不倫のことも、不妊症だと黙ってたことも、そのせいで傷つけたことも……許してくれとは言わないが、せめて里乃の幸せを願わせてくれ……」
里乃「……うん。どれだけ謝罪されても許せないけど、私……和寿のことは本当に好きだったよ。……あなたは、忘れられなかった恋を忘れさせてくれた人だったから」
和寿「え?」
里乃「さよなら」

目を見開いた和寿に、里乃は微かな笑みを残して出ていく。
和寿はしばらく立ち尽くしたあと、ひとりリビングへ。
力なくソファに腰を下ろし、深いため息をついて天井を仰ぐと、腕で顔を隠すようにする。



≪回想(和寿)≫

◆約六年前(新婚時)
〇インテリアショップ(昼)

インテリアショップでダイニングテーブルを選んだあと、ソファの座り心地を試す里乃と和寿。

和寿「絶対こっちの方がいいよ。レザーの方が汚れにくいし、適度にリラックスできる」
里乃「でも、ほら、こっちの方がふかふかだよ? 座り心地が好いし、ここで横になったらすぐに眠れそう。そっちよりもリラックスできると思うな」
和寿「でもなぁ」
里乃「ね、こっちにしようよ。和寿と一緒にこのソファでゆっくりしたい」
和寿「まったく……。里乃には負けるよ」
里乃「いいの?」

和寿は苦笑するが、嬉しそうな里乃を見て眩しそうに目を細める。
その瞳は愛おしさで満ちているようでもあった。

≪回想終了≫



和寿(こんなに後悔するくらいなら、不倫なんてしなければよかった……。こんな形で里乃を失うくらいなら、全部正直に言っておけば……)

後悔でいっぱいの和寿は、顔をしかめている。

和寿(レスになったときからEDだと思ってた……。だから、麗佳に反応したときはホッとしたんだ。子どもが作れないばかりか、男としても機能しないと思って、ずっと苦しかったから……。でも、里乃はもっと苦しんでたんだよな……)

和寿「ひとりだとこのソファは大きすぎるな……」

呟いた直後にスマホが鳴り、里乃から【離婚届が受理されました】というメッセージが届く。
和寿の脳裏に浮かぶのは、里乃の笑顔。
和寿の中の里乃への愛情は消えていなかったが、それでも里乃との離婚が成立した以上、深く後悔することしかできない。
和寿の瞳からは一筋の涙が零れ、顔を隠したままの腕でこぶしを握った。



◆一週間後(十月末)
〇イタリアンレストラン(夜)

ひとりでテーブルに座る里乃。
そこへ慌てた様子の潤がやってくる。

潤「里乃! 悪い、遅くなった」
里乃「ううん。お疲れ様」
潤「里乃もお疲れ。とりあえず今日は飲んで食おう」

ふたりは注文して、潤はビール、里乃はサングリアで乾杯する。

潤「それじゃあ、ふたりの新しい門出を祝って乾杯」
里乃「乾杯」

少し複雑そうな里乃と潤だが、ふたりの表情は穏やかでもあった。
以前はやつれていた里乃も、少しずつ食欲が戻ってきていた。
里乃より一足先に無事に離婚が成立した潤は、通勤に便利な場所にマンションを借り、これまで通り仕事を頑張っている。
今日は、お互いの離婚後、初めて会うのだった。

潤「お互い、無事に離婚できてよかったな」
里乃「そうだね。なんだか、すごく長い道のりだった気がする。潤に比べると、不倫を知ってからの時間は短いのにね」
潤「時間なんて関係ないよ。同じように悩んで苦しんで、ようやくここまで来たんだ。傷だってまだ癒えたわけじゃない」
里乃「うん……」



≪回想(里乃)≫

◆約一か月前(九月末)
〇里乃の実家(昼)

里乃が離婚を切り出して一週間。
里乃、和寿、里乃の両親が客間で向かい合う形に。
座卓を挟んで和寿と里乃の両親、里乃は三人の間に座っている。
和寿は座布団から下り、土下座していた。

和寿「このたびは本当に申し訳ございません。大切なお嬢様を傷つけてしまい、お義父さんとお義母さんにはなんとお詫びすればいいか……」
里乃の母「……」
里乃の父「……事情は里乃から聞いてます。私たちから言えることは、里乃の希望通りの形で離婚してくれということだけです」
和寿「はい……」
里乃の父「……どんな事情であれ、私たちは娘を傷つけた和寿くんを許せない。里乃はこのままうちに住まわせます」

このとき、里乃は実家に帰るつもりで必要な荷物は持参しており、和寿は頷いて再び謝罪する。



◆その翌日(九月末)
〇和寿の実家(昼)

里乃と和寿が並んで座り、向かい側に和寿の両親がいる。
和寿の母親は心底不満そうだった。

和寿の母「離婚ってどういうこと?」
和寿「俺の不貞で里乃を傷つけた。里乃が離婚を望んでるし、俺は受け入れることにしたんだ」
和寿の母「不貞って……。でも、なにも離婚しなくてもいいでしょう? みんな言わないだけで、夫婦には色々あるわよ。離婚なんて世間体も悪いし、里乃さんも考え直した方が……」
里乃「お義父さん、お義母さん、すみません。もう決めたことですから……」
和寿の母「でも、もっと話し合えば……和寿だって反省してるんでしょ? 里乃さんも不自由のない暮らしができるんだから、戸籍に傷をつける必要はないじゃない」
和寿「母さん」
里乃「すみません……。なにを言われても、私の気持ちはもう変わりません」
和寿の父「そうか。ふたりで決めたなら、そうすればいいんじゃないか」
和寿の母「お父さんは離婚に賛成なの!? ダメよ、そんなの! あのね、里乃さん。簡単に離婚っていうけど、あなたには落ち度はなかったの? 夫が不貞を働くのって家庭に不満がある場合が多いって聞いたことがあるし、あなたにも至らないところがあったんじゃないかしら?」
和寿「母さん、やめろ。里乃はなにも悪くない」
和寿の母「わからないじゃない。だいたい、早く子どもを作らないからこんなことになったんじゃないの。子どもを産んでおけば、もっと夫婦の絆が深まってたわよ! 和寿は専業主婦になってほしいって言ってたのに、あなたが仕事を辞めないからこんなことに――」
和寿「いい加減にしろ!」

声を荒げた和寿に、里乃と和寿の母が目を見開く。

和寿「子どもは作らなかったんじゃない。作れないんだ」
和寿の母「どういう……。もしかして、里乃さんに原因が……」
和寿「違う! できないのは俺のせいだ!」
和寿の両親「え……?」
和寿「俺は子どもを作れない……。結婚前からわかってたのに、ずっと里乃に黙ってた。そのせいで里乃を苦しませて傷つけてきたんだ……」
和寿の母「そんな……」
和寿「自分が男として欠陥品だと言われてるみたいで、男性不妊だと知ってからずっとつらかった。母さんが里乃に孫を催促してるときだって見て見ぬふりをしてたのは、自分のせいで子どもができないと知られたくなかったからだ……」

和寿からの告白に、和寿の両親は言葉を失っている。

和寿「俺はずっと、里乃と向き合えなかった挙句、不貞を働いた不甲斐ない夫だ。里乃は不倫を知るまでずっと、子どものことに関して俺を責めたことは一度もなかった。母さんに色々言われたときだってそうだ。……至らなかったのは俺の方だよ。だから、里乃を責めないでくれ」
里乃「お義父さん、お義母さん……。こんなことになってしまったのは申し訳なく思います。ですが、私はもう和寿さんとは一緒にいられません」
和寿の父「……そうか。里乃さん、和寿と妻がひどいことを……本当にすまなかったね。今までありがとう」
里乃「私の方こそ……ありがとうございました。どうかお元気でいてください」
和寿の父「ありがとう……」

申し訳なさそうに微笑む里乃、悲しげな和寿の父、罪悪感いっぱいの顔でいる和寿だったが、和寿の母だけは言葉を失ったまま呆然としていた。

≪回想終了≫



イタリアンレストランで食事を楽しむ里乃と潤。

潤「これから、カラオケでも行かないか?」
里乃「え?」
潤「俺さ、あいつらからもらった慰謝料をパーッと使ってしまうつもりなんだ。慰謝料はあくまでひとつのけじめとして受け取ったけど、こういうお金ってずっと持っていたくないし、でも服とか財布とか形に残る物にも使いたくないんだよ」
里乃(それはわかるかも……。私も慰謝料が欲しかったわけじゃないし、なんとなくこれで買い物とかはしたくないし)
潤「だから、いっそのこと、形に残らないものに使おうかと思ってさ」
里乃「で、手始めにカラオケ?」
潤「そう。学生時代によく行ったし、明日は土曜で仕事も休みだし、思い切ってオールでもするか」
里乃「うん、いいかも」
潤「よし、決まり! じゃあ、これ食べ終わったら行くぞ」

ふたりは笑い合い、食事を済ませて潤が会計をする。
そのまま夜の街へ繰り出すのだった。

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