黒衣の前帝は戦場で龍神の娘に愛を囁く
 龍神族の女が天井から落ちてきて一日が経った。瀕死の重体だったが、魔力による回復が早く一日で外見の傷口は閉じかけていた。予想以上の超回復だ。
 俺はせっせと傷口に薬草を塗り、包帯を取り換える。戦場では自分の傷は自分で治すしかなかったから苦ではなかった。もっとも本来ならば侍女たちに任せるような作業だったが、「自分でやる」と断ったのは俺が彼女から離れた瞬間、傷口が開いたせいだ。
 他の者が彼女に治癒魔法をかけようにも、俺がいると周囲の者は俺の魔力に耐えられない。結果、俺一人で手当てをするということになった。

「閣下! 女人の体は優しく触れるのですよ!」
「わかっている」

 部屋のドアを全開したその先の廊下の向こうから、侍女長のクララが叫ぶ。今年六十を過ぎるというのに、相変わらず元気だ。眼帯をかけた姿は侍女長というよりも、歴戦の女戦士という雰囲気が近い。クララも魔法耐性は高いが、俺の傍にいるのは難しい。
 しかし純粋な龍神族の女に失礼があってはならない、とクララは見張り──手当の指南役を買って出た。別段、重症の怪我人に何かする気はないのだが。これでも俺は常識人だし、騎士道精神というものもある。

「閣下がこのような献身な行動をなされるとは──さては惚れましたな」
「黙れ」
「婆やは嬉しく思います」
「……ほんと黙れ」

 龍神族の女を救う理由。
 先ほどは何もしないと断言したが、やましい気持ちがない──と言ったら嘘になる。
 完全に一目惚れだ。何より俺が傍に居ることで、彼女の顔色がよくなっていくことが純粋に嬉しかった。恐れられ忌み嫌っていた体質が誰かの役に立つとは、人間何が起こるか分からないものだ。
 そしてそれ以上に──これほど長く誰かが傍に居たことなどなかったのだ、だから──俺は内心、浮かれていた。

 それから暫くすると、仕事の書類をここまで持ってくるという知らせが入る。腕輪型魔導具による通話機能によって連絡が入ったからだ。俺の体質上、こういった魔導具の使用は多い。そして部屋の前まで来ることが出来るのは、一人しかいない。

「閣下!! 龍神族が空から降ってきたって本当ですか!?」

 部屋の扉を勢いよくあけて、カイルが飛び込んできた。俺は思わず舌打ちが出る。

「声がでかい」
「おっと! これは失礼しました」

 乳母兄弟のカイルは割と魔力耐性が強い。だがそれでも常人に比べれば、だ。同じ空間に居るのは十分が限度だった。戦闘では魔力で作り出した鎧を纏うことで一時的に中和できるが、体力の消耗が激しいのだ。それにあの甲冑は絶対に事務向きではないので、正直装着して書類整理などしたくない。

「……彼女は、ずっと眠っておられるのですね」
「ああ」

 カイルは書類を部屋のテーブルに置くと、素早くドアの向こうに移動する。その距離は十メートル前後だろうか。俺の近くにいるのは辛いはずなのだが、龍神族に興味があるのだろう。

「閣下、これはすごいことですよ!? 純粋な龍神族だからこそ、閣下の強大な魔力対しても全く動じていないんです。つまり、この方となら閣下は、ただの男として傍に居られるのです!」
「……そうだな」

 戸惑いながらも、瞼を強く閉じている彼女の頬をそっと触れた。すべすべの肌は、とても柔らかく、温かい。白い包帯が痛々しいほど体全身を包んでいるが、ガウンを着ているのでそこまで重症には見えなかった。顔色がよくなっているからだろうか。

「目が覚めたら、龍神族の魔法が見てみたいですね! 稽古とかしていただけるんでしょうか? やっぱり電撃系の魔法が得意なんでしょうか。それとも風、いやいや炎かもしれませんよね?」

 カイルは幼い頃から龍神族に憧れを抱いている。そのせいか俺を慕ってくれる数少ない部下だ。こんな国境付近の辺境の地まで付いてくるもの好きも中々いないだろう。

「カイル」
「はい?」
「病人が寝ているんだ、静かにしろ。……いや仕事に戻れ。特別に仕事を倍にしてやろう」
「閣下ばかり、独り占めして狡いじゃないですか。クララをはじめ、侍女たちもみんな彼女の世話をしたいと言っているのですよ!」

 独り占め。
 その言葉は俺にとって衝撃的だった。そんなつもりはない。「ただ単に魔力を吸収することで、回復するから俺は傍に居ただけだ」そう言い訳をカイルに告げようとして──黙る。
 そう言えばカイルは「じゃあ、私が!」と、この役を狙うのは必須。何よりカイルは龍神族に興味があるのだから、彼女に好意を寄せるのも時間の問題となる。
 だからカイルの独り占めという言葉はある意味、認識として正しい。

 昨晩、彼女と目が合った時、胸を射抜かれた。
 あの瞬間。
 俺に向けて、微笑んだ彼女の笑みが忘れられない。脳裏に焼き付いて、もう一度目が覚めたら、笑って欲しい──。
 そう願う自分がいた。

(会って間もないというのに……)
「閣下」
「なんだ?」

 カイルは扉の外側に立ったまま、どこまでも嬉しそうに笑った。

「やっぱり世界は広いですね」
 
 まるで俺の心情を見透かしたかのような言葉に微苦笑する。カイルも俺から返事があるとは思っていなかったようで、そのまま部屋を出ていった。

(そうだな。……確かに、世界は広い)

 眠り続けている彼女に視線を向ける。規則正しい呼吸で、眠り続ける龍神族の女。淡藤色の艶やかな長い髪、白い肌、美しい白い二本の角。
 出会った時、彼女は血塗れの戦士だった。
 気高く美しい。そして今眠っている彼女はあどけない子どものように幼く見える。こうも雰囲気が変わるものだろうか。
 思わずじっと見つめてしまう。

「んっ……」

 身じろぎをする彼女は誰かを探しているのか、指先が動いた。追っている同胞を探しているのか。同胞。それとも──想い人だろうか。
 そう考え俺は考えを振り払った。

(くだらない)

 なおも何かを探している指先に視線を向けると、そっと彼女の手を掴んだ。俺ではない誰かだろうけれど、不安そうな顔を見ていたら放っておけなかった。細くて、柔らかくて、小さな手。本当に龍神族なのかと疑うほど、細くて華奢な体。

「…………」

 何と言ったのか聞こえなかった。けれど不意に安堵した顔は反則といえるだろう。満足気に俺の手を握り返す。その笑顔が自分に向けられないだろうか。もう、その時には俺の心は恋という厄介なものに落ちていたのだろう。
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