夜明けを何度でもきみと 〜整形外科医の甘やかな情愛〜

2


 整形外科での勤務が始まってまもなく、棚原は菜胡への気持ちに気がついた。かわいくてたまらない。彼女のことをもっと知りたい。話もしたい。そんな想いは全面に出ないよう努めた。強引に詰め寄って怖がらせたくないし、拒絶されるのも怖かったからだ。思えば、初恋と呼んでも良いのではないだろうか。これまでは好意を寄せられていつの間にか関係が始まっていて、自分から好意を抱く事がなかったのだ。だから、好きな子へどう接したらいいのか勝手がよくわからない。慎重にならざるを得ない。
 
 外来をこなし、手術や検査をして一週間が終わると菜胡に会えない地獄の週末をやり過ごした。そうしてようやく月曜の朝、菜胡に会えると楽しみにして早くに出勤すれば、駐車場から見える院内食堂に、朝食を摂る菜胡を見つけた。声をかけるチャンスだ。食堂に行ける扉を目視した時、菜胡の正面に一人の女が座った。病棟のナースでこの間からしつこく近づいてくる女だった。

 ――なぜあれが菜胡と?

 菜胡の前であいつに絡まれたら最悪だ。警戒して窓の横を通った。何の話だろう。菜胡の心を乱す話じゃないといいが……。

***

 この月曜は忙しかった。
 十時半過ぎ、救急車が一台到着し、整形外科外来に運び込まれた。

「棚原先生〜、ヘマやっちまった……」
 患者は初日から診ている南川由雄で、屋内で転倒し動けないでいるところを、訪れてきた知り合いに発見された。意識はしっかりしており、両手と左足は動かせた。だが右足が動かない。足は外旋し動かすと痛がった。

「骨の写真を撮って、入院しましょうね」
「オレの骨、折れてんのか? もう歩けないのか?」
 そうパニックになりかけ弱気な南川の手を、菜胡が咄嗟に取った。大原は病棟へ上がり南川の入院の支度を、樫井は南川の検査や入院に必要な伝票を書き、それを棚原に渡しながら今後の方針を決めている。菜胡は南川の血圧を測ったり、救急が来ているなど知らない患者への対応に追われていたが、南川の発言に、手を伸ばした。

「菜胡ちゃん、俺もうダメだ……」
「なぁに言ってんの、ダメなもんですか。私がお嫁に行くときは小諸長唄歌ってくれるんでしょう、楽しみにしてるんだから。私まだお嫁に行きませんからね」
 穏やかな菜胡が、大原のような物言いをしている。でも口調には菜胡の優しさがあった。泣きそうな顔の南川は、そうだな、と何度か繰り返し、やがて戻ってきた大原に付き添われて病棟へ上がった。

 整形外科外来の狭い廊下が、この時はもどかしく思えた。元の病院なら専用の救急外来があり、そこで検査も行える。だがここは古い。普段は人情味が溢れているが、こういう時は不便だ。

 それからの外来は棚原と菜胡でこなした。せっかくの二人きりだが甘い空気は微塵も漂わず、とにかく忙しかった。南川が搬送されてきた時点で整形外来の受付は停止してもらっていたから、診察待ちの患者は、現在、診察机に積み上がっているカルテだけだ。

 菜胡が採血をしている時にかかってくる電話は棚原が受けた。患者対応に追われていて手が回らない菜胡は診察の補助ができずにいて、だが棚原は縫合セットを自分で用意して処置をした。そんな慌ただしさを終えたのは十三時近かった。

「はーー、お疲れさまでした、何とか終わりましたね。色々不手際あったと思います、すみません」
「いや、こっちこそ、菜胡が動いてくれたし助かったよ」
 忙しさを共に乗り越えた仲間意識があった。

 菜胡はコーヒを淹れると言い出したため、ちょっと賭けに出る事にした。

「菜胡……ん」
 椅子に座った状態で、菜胡の方を向いて両腕を拡げた。おいで、と言ったつもりなのだが、果たして菜胡に通じるだろうか、来てくれるだろうか。
 菜胡は、逡巡した後に顔を俯かせたままトタトタと棚原の脚の間にやってきた。腕を取り膝の上に乗せる。身体を強ばらせていたが、腰の辺りに手を回して抱きしめると、少しずつ緊張が解けていくのがわかった。

「はー……疲れが取れる」
 菜胡の身体に身を寄せる。

「そ、そうですか? 動いたから汗臭いんじゃ……」
「ん、ちっとも」
 動き回った後で汗ばんでいるのは棚原も同じだ。多少の汗の匂いが加わって、菜胡のそれはより強く棚原を刺激した。やがて菜胡も棚原の首に腕を回して、近づく顔。

「先生、上に行かなくていいんですか……」
「もうちょっと休んだら。……お嫁に行くときは南川さんに歌ってもらうんだって?」
「前に、お弟子さんの披露宴で歌ったと話してくれたんです。私の時も歌ってやるからなぁって言ってくれてたの」
「そっか……菜胡をお嫁さんにする奴は幸せだな」
 言ってて苦しくなる。

 本当は今すぐプロポーズして十七時前には婚姻届を出したい。そのまま連れ帰って、自分のものにしたい。誰にも渡したくない。そんな思いが強くなって菜胡をより強く抱きしめれば、首に回された腕の力もわずかに強くなる。棚原の肩口に顔を埋める菜胡が息を殺しているような気がした。

 ――泣いている?

 腕を緩めて顔を覗き込んだ。眉は下がり、その大きな目には、今にもこぼれそうなほど涙を湛えていた。

「ばか、なんで泣きそうな顔してんの」
「――わかんない」
 首に抱きつく力が少しだけ強まって、小さく聞こえた。それに応えるかのように菜胡を抱く腕を強める。

「泣くなよ……」
< 15 / 89 >

この作品をシェア

pagetop