龍神様の贄乙女
***

 玉を抱いたまま胎児の様に丸まって水中をたゆたっていたら、不意に山女が名を呼ぶ声がした。

 気のせいだと分かっていても、それは胸を切り裂くような悲愴さで川全体を震わせたから。

 辰は、思わず閉じていた瞳を開いた。

 声がした方へ目を凝らせば、澄んだ水の先、小さな人影が不自然にもがきながら沈んで行くのが見えて。同時に水の中を嗅ぎ慣れた山女の匂いが漂ってくる。

『山女⁉︎』

 直感的にそう思った辰は無意識、何よりも大切なはずの玉を手放して三m(十尺)ばかり先の小さな人影へ手を伸ばしていた。

 泳ぐのはそれほど遅くないと自負していたはずなのに、本調子ではないからだろうか。高々十尺程度の距離を縮めるのが無限の長さに思えて。

 息も絶え絶え。やっとの思いで腕の中に掻き抱いた山女は、朝送り出した時のまま薄紅色にカゴメ模様が入った小袖姿で、どういう扱いをされたのか生地のあちこちが汚れてほつれていた。
 それだけならまだしも、足首にも後ろ手に回された手首にも、縄が掛けられて身動き出来ない様にされていて。

 いつもは紅を引いたように赤みのさした頬と唇が、今は血の気を失って青白くなっていた。

 呼吸もしていないように見えたけれど、辰が山女の身体をずり落ちないよう抱き上げた拍子、コポリと口から水を吐き出して、浅いながらも胸が上下し始める。
 その事にホッとして、とりあえず岸辺まで連れて行き忌々しい縄を断ち切ってやったけれど、未だ辰の腕の中。
 ぐったりして目すら開けようとしない山女の身体は氷みたいに冷え切っていた。
< 44 / 53 >

この作品をシェア

pagetop