クレオ*̣̩エシス
ιστορία*.4─中編─
診察室に2つの声が木霊する。
1つはここの院長先生のもの。
もう1つは、羽月のものだった。
言葉を聞き取れなかったが、その声色から深刻な話題なことは明白だった。
「そう、ですか。分かりました」
人が行き交う廊下に、小さな開閉音が響いた。
浮かない顔で出て来た羽月は、キュッと唇を引き結ぶ。
「お疲れ様、羽月ちゃん」
柔らかな幽見の労いの言葉に、羽月は小さく表情を緩める。
「少し時間貰える?話したいことがあるの」
そう言うと、幽見は羽月の答えも待たずに歩き出した。
駆け足で着いて行く羽月の足取りは重い。
これから話されることが、その主題がなんとなく分かるから。
「ここよ」
そう短く示された場所は。
「休息室……?」
一見、何の変哲もない休憩室だが、その下には小さく『院長の許可を取る事』と書かれていた。
「これ、大丈夫なんですか?」
「えぇ。ここは私の自室みたいなものだから」
自室────病院内に自室という、若干噛み合わない言葉に、ふと羽月は眉を顰める。
「とりあえず入って。あ、お茶入れるわね」
先にスタスタと入って行った幽見を見つつ、羽月も恐る恐る足を踏み入れる。
確かに、休憩室と言うよりも自室の方がしっくりくる部屋だった。
例えるならば、一人暮らしの大学生の部屋だろうか。家具が白で統一されているので、病院の雰囲気も損なわれていない。
「この病院に、こんな場所があったなんて…」
2年近くこの病院にいる羽月も知らない場所。
そしてその時から1番羽月の傍にいた幽見の自室。
まだまだこの世界は知らないことだらけなのだと、改めて考える。
「それで、話って……」
お湯を沸かしている幽見に向かって、羽月は本題を投げかける。
本当はまだ心の整理が着いていないため、早急に話したい内容では無いのだが、なんとなく羽月の中に生まれている焦りが、その言葉を引きずり出した。
「もしかして、あの子に先を越されないかって焦ってる?」
自分の心中を読まれ、息を飲む。
背を向けているのに感じる威圧。
今日の幽見は何かが違うと、羽月は唇を引き締める。
「ごめんなさい。少し、意地悪だったかしら」
コンロの火を止め、ティーポットにお湯を注ぐ。
紅茶のいい香りがフワリと辺りに立ち込めた。
「でも羽月ちゃんは、私と同じ道を辿って欲しくなくて」
数回ティーバックを揺らし、氷で満たされたグラスに注ぐ。そのグラスをテーブルに置くと、羽月に座るよう促した。
いつもと違う雰囲気に警戒しつつ、羽月は椅子に腰を下ろす。
「同じ、道……」
「えぇ。────大切な人との間に、後悔を残して欲しくないの」
──────違う。
いつもの幽見なら、こんな踏み込んだことは言わない。
本格的な違和感に、思わず羽月は口を開く。
「どうしたんですか。今日の幽見さん、いつもと違います」
その言葉に、幽見は瞬く。
そして、あ──と小さく声を漏らすと、恥ずかしそうにはにかんだ。
「ごめんなさい。そうよね……羽月ちゃんにはまだ話してなかったわ」
一瞬にして戻ってきた明るい雰囲気に、呆気に取られ黙るしかない羽月。
先程から、彼女は振り回されっぱなしである。
「えぇと…何を……」
「実は、深夜くんには話したの。私の過去の話」
「えっ───!?」
思わぬ告白に、羽月は驚いて机に乗り出す。
自分のプライベートはほとんど話さない幽見が、過去の話をした。それだけで、羽月にとっては驚くべき事だった。
「そんなに驚かないで。ほんの少しだけよ」
困ったように笑う幽見を見て、羽月は自分が机に乗り出していることに気が付き、慌てて身を引く。
そんな羽月がおかしかったのか、小さく笑みを浮かべた幽見は、落ち着くように深呼吸すると、真剣な眼差しを羽月に向けた。
「羽月ちゃんにも、話しておくわね」
幽見の場合は分からないが、隠していた過去を話すということが、どれだけ重く、覚悟のいることか、羽月は知っている。
だからこそ、聞く側である自分もそれ相応の覚悟をしなくてはいけないと、姿勢を正した。
「前からいる羽月ちゃんなら、薄々気付いてたかもしれないわね」
グラスに映る自分を見つめながら、幽見は話し始める。
「この病院の近くには、もうひとつ普通の病院がある。ここよりも大きな、ね。それでも、ここに来る患者は減らない。それどころか、モリンシが流行してからは増加傾向にある。────それが何を意味しているのか」
紅茶を一口飲み、口と唇を湿らせる。
1度目を閉じた幽見がゆっくりと口を開いた。
「元々この病院は、一般の人が来るような病院ではないわ」
幽見の告白に、羽月は静かに息を飲んだ。
「……一般人が来ないなら、一体誰が──?」
新たに生まれた疑問に、羽月疑念を募らせる。
それならば、自分や深夜、花は何のためにここにいるのか。
幽見の言葉通りなら、自分達は“一般人”では無いということになる。
「それは──────」
羽月の疑念を正面から受け止めた幽見は、躊躇いに視線を泳がせる。
どこまで話すべきか。どこまで話していいのか。
そんな疑問が、幽見の頭を駆け巡る。
暫く沈黙を保っていた幽見だったが、意を決したように視線を上げると、ゆっくりと口を開いた。
「あまり詳しいことは喋れないけど、出来ればこの事は口外しないで欲しい」
「────深夜にも、ですか」
急な口止めに、羽月は絶対に嘘を見破るであろう彼の名を口にする。
幽見は一瞬だけ迷いを見せたが、すぐにポーカーフェイスを整え、薄く微笑んだ。
「えぇ────と言いたいところだけど、きっと深夜くんにはわかってしまいそうね。出来れば言わないで欲しいけど、聞かれたら答えて構わないわ。その時に口止めすることを忘れずにね」
彼女も、羽月と深夜の関係をよくわかっている。
だから、羽月は深夜を騙せないし、深夜も羽月の嘘を簡単に見破ってしまうことを知らないわけではなかった。
「本来なら、これは私達だけの問題だからあまり人には言えないのだけど」
ゴクっ───と喉がなる。
視線を鋭くした先で、幽見がその言葉を口にする。
...
「元々この病院は、私達戦う者が、その傷や精神を癒すためのものなの」
聞き慣れない単語に、羽月は訝しそうに問い返す。
...
「戦う者…?」
幽見は「そう」と短く答えると、少し視線を落とした。
それは、傍から見れば過去を懐かしんでいるように見えるかもしれない。
しかし、羽月にはそれが後悔と悲しみを帯びたように見えた。
「戦いに負けて、深い傷を負った人。精神が壊れてしまった人。症状はみんな違うけど、そうやってどこかが壊れてしまった人が、少しずつ前を向いていく場所なの」
──今は、そうじゃない人も沢山いるけどね。と、幽見は瞼を閉じる。
そこで幽見は言葉を止めた。
不自然に止まってしまった会話に、羽月は眉を顰める。
「ねぇ。私って、何歳に見える?」
唐突に投げかけられた質問に、羽月は狼狽える。
正直、あまり人の年齢が分からないのだ。
だがここで的外れな解答をする訳にもいかず、ウロウロと視線を彷徨わせているのを見兼ねた幽見は、少し困ったように助言をした。
「そんなに難しく考えないで。例えば、ここにいる看護師さんたちと私を比べたらどう?私は学生に見える?羽月ちゃんのお姉さんと比べたら?」
幽見の問に、じっと考える羽月。
ここにいる看護師さんは、だいたい“おばさん”達が多い。そうなると幽見は若い部類に入るだろう。
学生に見えるかと言われると、普段の行動からかあまり違和感はない。すんなり溶け込むことが出来るだろう。
姉と比べるとどうだろうか。
姉は今17.8歳くらいだったはずだ。
それと比べると
「あっ──────」
気付きの声と共に、思考のために落としていた視線を上げる羽月。
....
そうだ、幽見はこの病院で働くには“若過ぎる”。
「気付いたみたいね。因みに私、今年で19よ」
「じゅっ────」
────本当にお姉ちゃんと変わらない……!
想像より若い、というかこの年代だと幼い年齢に、羽月は驚愕する。
しかし、ならば何故幽見はこの病院で働くことが出来ているのか。
「不思議そうな顔ね」
不信感を胸に募らせる羽月の顔を見て、幽見は薄く笑う。
「無理ないわ。私は特例だから」
「特例、ですか」
ふと幽見は、何処か遠くを見た。
突然の挙動に、羽月は声を掛けようか悩んでいると。
「東棟3009号室」
突如、幽見は病院の部屋番号を口にした。
東棟、つまり羽月達モリンシ患者の入院しているS棟とは別の、一般の人が入院する病棟。
「そこに、私の大切な人が眠ってるわ」
そう言った幽見の言葉は、流れるようだった。
ただその事実を口にしているだけとでも言うように。
「え──────」
そんな幽見の手前、大きな感情の揺れを見せるわけにもいかず、羽月は小さく言葉を零した。
「その人の、様態は…」
「数年経った今でも目覚める兆しがないくらいには、深刻ね」
衝撃の事実に羽月は絶句する。
それと同時に自身の母と、その状態が重なる。
自分の場合は家族とは良好な関係とは言えなかったが、幽見の場合は、話を聞く限り、とても信頼していた人のようだから、その衝撃と悲しみは計り知れないだろう。
「そんな顔しないで、羽月ちゃん」
余程辛そうな顔をしていたのか、困ったように幽見は笑う。
「確かに、あの人が入院した当時は現実を受け入れられなくて、なんで、どうしてって泣き叫んだりしたけど、今は大分現実が見えてきたわ」
本当は、笑うことなんて出来る状況ではないのに、それでも彼女は笑う。
────私にはそんなこと、出来ない。
「そんな時、院長先生がね。『特別な資格も技術も要らないから、彼が目を覚ますまでここで働かないか』って仰ってくれて。それで私は特例で働かせて貰えることになったの」
今では立派な戦力なのよ──と、誇らしそうに笑う幽見は、いつもと同じに見えて。
「───死にたいとは、思わなかったんですか」
つい、そんな質問をしてしまった。
意外な、しかし羽月らしい質問に、彼女は軽く苦笑する。
確かに、羽月が幽見に親近感を覚えたなら、その疑問が湧いてくるのも不思議ではない。
「そうね。立ち止まってたら、そうなっていたかもね」
カランっ──と氷が崩れる音が響く。
「なるべく考えないようにしていたのかも。色々やらなきゃいけないことを詰め込んで、あの人は私が死ぬことなんて望んでないって、自分に言い聞かせて」
──立ち止まったら、もう二度と、前には進めないってわかってたのかしらね。
複雑そうに目を伏せた幽見を、羽月は静かに見つめる。
幽見は辛くても自分の気持ちに蓋をしても進み続けた。しかし、自分は────。
「幽見さんは、強いですね」
ぎゅっと膝の上で手を握り、羽月はそう言葉を零す。
「私は、進めなかった。……進もうとは、しなかった。ただ逃げて、散々周りに不幸だけをばらまいて」
羽月の眉が、辛そうに歪む。
幽見は目線を上げ、そんな羽月を見据えた。
確かに彼女は“生きることを放棄する”という方法で、進むことを辞めたのかもしれない。
────だがそれは、過去の話だ。
「でも羽月ちゃんは今、ちゃんと進めてるわよ」
笑顔と共に紡がれた言葉に、羽月は弾かれたように顔を上げる。
思いもよらない答えだったのか、目を見開いて。
「こんなに躓いているのに、ですか」
「えぇ、当たり前よ。そんな真っ直ぐ進めると思ったら大間違いよ?寄り道して遠回りして、立ち止まって。そうやってまた歩き出すのよ」
その言葉はとても明るく、羽月の沈んでいた心に一筋の光が射したようだった。
「…幽見さん」
その光に背中を押され、否、花姫と幽見に背中を押され、羽月は覚悟を決めた。
「私、このままじゃ嫌です」
はっきり言葉を紡ぐと、羽月は少し視線を落とした。
「でも……どうしていいか、分かりません。私はまだ、変われてない」
だから────。
震える唇が言葉を探す。
本当に、頼ってしまっていいのか。
自分で考えなければいけないのではないか。
もし、拒絶されてしまったら、どうしよう。
「──────うん」
優しい相槌が打たれる。
その一言だけで、全てが受け入れられたような、そんな気さえする。
羽月はひとつ深呼吸をすると、幽見の目を捉えた。
「だから────助けて、下さい……っ」
勇気を出して、発した一言。
初めて口に出した、“助けて”という言葉。
幽見は驚愕に目を見開き、息を飲む。
どんなに辛いことがあっても、絶対に誰かに頼ろうとはしなかった羽月。
そんな彼女が自ら助けを望んだ。
そんな覚悟の手を、振り払えるわけが無い。
「1つだけ。これは私からの提案」
助けて、貰えた────。
羽月はきゅっと唇を結ぶ。
そうしていないと、嬉しさで涙が零れそうで。
「貴方達は、一度本心で話し合ってみるべきだと思うわ」
「────本心」
核を突いたアドバイスに、羽月は熱心に耳を傾ける。
「そう。すれ違ったように感じるのは、お互いの本心が分からないから。それならまず、相手がどう思ってるのか知るところから、始めるのがいいんじゃないかしら」
羽月は食い入るように幽見を見つめる。
そうか。すれ違いの原因は、自分が深夜のことを避けていた事だったのだ。
深夜は何度も羽月に話しかけようとしていた。
それを聞かなかったら、何も始まらない。
「どんなに纏まらなくても、途中で黙ってしまっても、悪口になったっていいの。それでもし、喧嘩になったり、誤解が生まれてしまっても、貴方達には言葉がある。解決できないことなんてないのよ」
まるで子供に教えるような、ゆったりと諭すような口調。
羽月は心の中で、幽見の言葉を噛み締める。
言葉があるから、解決出来る。
ならば、自分も──────。
「幽見さん。私、深夜と話してきます」
ガタッと席を立ち、羽月は幽見と真っ直ぐ目を合わせる。
その眼差しが、彼女の覚悟を示しているようで。
「っ───────」
幽見は思わず息を飲んだ。
その覚悟が、戦いに行く時の“彼”と重なってしまって。
「本当に、本当にありがとうございます。幽見さん。…それと、今までごめんなさい」
謝罪の意味がわからず、幽見は、え…と声を漏らす。
「今までも幽見さんは、こうやって私の事、励まそうと…背中を押そうとしてくれていたのに。私、何も聞こうとしなくて」
最近になり気がついた事。
自分が今までどれだけの人に支えられて、また、どれだけの人の好意を、無駄にしてきたか。
「やっと分かりました。でも、遅すぎですよね」
見つめていた視線を落とし、後悔に眉を寄せる。
今になってわかっても、謝れない人もいる。
どれだけ自分が未熟で、最低な行いをしていたか、ようやくわかった。
一方幽見は、羽月の成長をしみじみと感じる。
生きることをやめようとしていた彼女が、生きようとしている。そればかりではなく、他人の気持ちを理解できるようになった。推測できるようになった。
人に、絶対的な壁を作らなくなった。
それがとても大きな変化であり、深夜なしでは成し得なかったことだと、一番長く羽月と一緒にいた幽見が、誰よりも理解している。
それが少し、悔しいけれど。
「遅すぎなんてことないわ。現に私、羽月ちゃんがそう思ってくれてるってわかっただけで、凄く嬉しい」
とても嬉しい。
彼女は出逢えたのだ。
唯一無二の、愛すべき人に。
「────実は私、年の離れた妹がいるの」
なんの脈絡もない告白に、羽月はポカンとした顔で、少しだけ顔を左に傾ける。
「もう何年も会ってないし、私の事なんて、ほとんど覚えてないと思うけど」
幽見の瞳が羽月を映し、優しそうに細められる。
「でも…。それでも、大切な妹なの」
澄んだ空気の中に、幽見の言葉が溶けていく。
こんなにも、言い切れるものなのだろうか。
姉に大切にされなかった──自分も家族を大切には出来ていなかった羽月には、分からない。
「だからもしかしたら、羽月ちゃんを妹と重ねてたのかも」
自嘲じみた微笑みを浮かべながら、幽見は笑う。
「幽見さん…」
何と声を掛けていいのかわからず、羽月は小さく彼女の名を呟く。
すると幽見は、パンッと手を叩くと羽月に笑顔を向けた。
「さて、きっと深夜くんも待ってるわ」
その表情はとても柔らかく、まるで彼女らの親のようであった。
羽月は小さく頷くと、ドアを開け。
「羽月ちゃん」
幽見に呼び止められ、振り返った。
小さく手を振り、口元に暖かな微笑みを浮かべながら。
「────いってらっしゃい」
母が子を送り出すように、その言葉を口にした。
今までに、これ程までに暖かい見送りがあっただろうか。
感動とも寂しさとも言えぬ感情を抑えるために、羽月はグッと歯を食いしばる。
そうしていないと、この感情が嗚咽となって零れてしまうから。
だから、その代わりに彼女は長年の思いを口にした。
「幽見さん。私、幽見さんはもう1人のお姉ちゃんだと思ってますよ」
少し照れたようにはにかみ、羽月は急いで姿を消した。
思わぬ告白に、幽見は暫く動きを止めた。
しかし羽月のことを思うと、その言葉はとても嬉しいものに変わった。
自分のしていたことは、ただのお節介ではなかったかもしれないと、少しだけ胸を張れた。
「どうやら私も、歩き出さなきゃいけないみたい」
立ち上がり、ベッドの側へと歩み寄る。
正確には、その近くのサイドテーブルに置いてある、写真に向かって。
「アタシだって、あの頃とは違うんだよ。
──────ねぇ、薺」
ふっ──と笑いかけたその表情は、年相応の少女のようで。
幽見はスマホを手に取ると、どこかへ電話をかけ始めた。
コール音が鳴り響く間、凛と前を見据えた様子は、とても美しかった。
それと同時に彼女の覚悟が読み取れる。
「もしもし」
相手と繋がり、緊張からくる震えを必死に抑えながら、かろうじて声として発された言葉。
電話の向こうで、息を飲む気配。
どうやら自分は忘れられてはいないようだ。
その事にほんの少し口元を緩めて、幽見は問い掛ける。
「久しぶり。アタシの事、覚えてる──────」