クレオ*̣̩エシス

ιστορία*.4.5─前編─




シュッ───シュッ───。

朝の病室に、微かな音が気まずそうに流れる。
窓際の花達に霧吹きで水を上げながら、深夜はチラリと洗面所を盗み見る。
ドアの向こうにいるであろう彼女は、一体どんな表情をしているだろう。

緊張、してはいないだろうか。

霧吹きを置くと、深夜は洗面所のドアをノックした。


「羽月、入って大丈夫か」


少しの間を置いて、洗面所のドアが静かに開き羽月が顔をのぞかせた。


「うん。時間かかって…ごめんね」


なんて声を掛けようかと迷っていた深夜は、その彼女の姿を見て、言葉を失った。

羽月は、そんな深夜の様子を見て困ったように視線をさまよわせた。
いつもと違う、上の方でひとつに束ねた髪を指で弄りながら。


「………あ、悪い。黙っちゃって。ちょっと…その…驚いて」


「…………気合い入れすぎ、かな」


しゅんとした様子で髪を解こうとし始める羽月を見て、慌てて深夜は止めに入る。


「あっ!待て待て、別に解いて欲しいわけじゃないから…!」


まだ不安そうな羽月だったが、この髪型を崩す様子が無くなったので、深夜はほっと胸を撫で下ろす。


「すぐ言えなくてごめん。言葉が出てこなくて。似合ってるよ。だからもっと前を見て大丈夫だ」


そう言って深夜は、暖かく微笑む。
なんとなく本心で言っているのだと気付いてしまった羽月は、思わず目をそらす。
否定されたら傷つく癖に、褒められるとどうしていいか分からない。


「それなら……よかった。深夜が言うなら、信じるよ」


何とか思考をまとめて伝えた言葉は安堵と言うには弱々しかったが、信頼を感じるには充分だった。


「桃音ちゃんの病室番号、わかった?」


「あぁ。S306号室らしい」


「わかった。じゃあ───」


もう一度鏡で髪を整えた羽月は、強い眼差しで深夜を振り返った。


「行きましょうか」


静かな想いを、その瞳に宿して。




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相変わらず病院内は忙しなく、二人の側を早い足取りの看護師たちが通り過ぎて行く。
そんないつもの階段を上る二人の顔つきは強ばっているようで、お互い何も言わないものの緊張しているのは明白であった。


「ここだな」


看板に目をやってから、深夜は羽月を振り返る。
不安そうな眼差しに彼が問いたいことを察した羽月は、「大丈夫だよ」と頷いた。


「じゃあ、行ってくるね」


強い眼差しで深夜を見つめ返すと、彼も同じ視線を返し、頷いてくれた。


スッと深呼吸をすると、羽月は控えめに扉を叩いた。それを確認してから深夜は距離を取る。彼がいると『羽月が来た意味』がなくなってしまう。


「こんにちは、美冷羽月です。いきなり来て、ごめんなさい、話がしたくて」


震える声を無理やり律し、なるべく自信があるように振る舞う羽月。
そうすることは苦手なはずなのに、彼女は頑張るのだ。桃音と対等に話をするために。

暫く返事はなく、病室に居ないのか、あるいは羽月となど話したくないのかと不安になったところで、病室のドアが静かに開いた。

驚く羽月の瞳に映ったのは、先日よりも控えめに羽月を見つめる桃音の姿だった。


「……どうぞ」


声にも先日のような攻撃的なオーラは無く、その不安気な声色に羽月の方が動揺してしまった。


一言言うだけでスタスタと病室に入って行ってしまった桃音を追いかけようとし、羽月は外に待機している深夜にチラリと視線を送った。
それを受け取った深夜は口の形だけで「頼んだぞ」と伝えた。


「入れてくれて、ありがとう。私の話なんて聞いてくれないかと思った」


病室の中は薄暗く、閉められたカーテンの隙間から漏れ出す夏の光だけが、部屋を照らしていた。
深夜のエールを受け取り扉を閉めた羽月は、どこから切り出そうかと迷いながら言葉をかけた。
そんな羽月を一瞥すると、桃音は言いにくそうに口ごもった。


「それは……」


ストンとベッドに腰掛けると、ポツリと謝罪を口にした。


「……ごめんなさい。その、色々と」


「えっ…」


突然の謝罪に羽月は目を丸くする。
まさか謝られるとは思わなかったし、桃音が素直に謝るようなタイプだとは思っていなかった。


「あの後、貴方の親友に聞いたわ。……過去のこと、とか」


「親友…」


それが深夜でないのなら、対象は一人しかいない。

初めての『親友』に心の中でお礼を言い、羽月は再び桃音に向き直った。


「そっか。じゃあ私の事…何となく知ってるんだ」


「私、貴方の髪のこと何も知らないで酷いこと言って……。深夜くんがあんなに怒るのも当たり前だわ」


「私は謝ってくれただけで充分だよ。……慣れてるから」


本当は少しだけ心が痛かったけど、今はそれよりも他の人から貰った幸せの方が大きいから。

桃音はそれでも納得いかないのか、表情は翳りを帯びている。
こんな状態で切り出すのも良くない気がしたが、いつまでも黙っている訳にもいかないので、羽月はここへ来た目的を果たそうと口を開いた。


「私………桃音ちゃんに伝えておきたくて」


一息で告げる勇気が出ず、羽月は一旦言葉を止める。羽月にとってこの言葉は宣誓なのだ。


「深夜はあげられないってこと」


顔を伏せていた桃音の肩が揺れる。
さらに俯いてしまったため、その表情は見えない。


「桃音ちゃんにとって深夜がどういう存在なのか、私が全部理解することは出来ない……でも、桃音ちゃんが深夜のこと想ってるのと同じくらい───」


言いかけて、羽月はやめる。
これだけは、自分に誇れることだから。


「それ以上に、私は深夜のことが好きだから」


過ごした年月は羽月の方が少ないし、深夜の過去を羽月は見てきたわけじゃない。
それでも、彼の仕草や言葉の一つ一つに自分は恋をしていて、失いたくない居場所なことは紛れもない事実だから。


「だから、ごめん」


そこまで言い切って、羽月は静かに息を着く。
話している時は集中していたせいで気にならなかった震えが今になって襲ってきて、羽月はぎゅっと拳を握る。

桃音は俯いたままで、怒っているのか悲しんでいるのか分からない。
ただ、膝の上で握られた拳は先程よりもキツく握られていた。


「───………貴方は、深夜くんの何」


静かに投げ掛けられた問いに、羽月は少しだけ目を閉じて。


「私は、深夜の恋人です」


真っ直ぐ桃音を見据えてそう答えた。
もう、深夜との関係に迷うことはない。

それを聞くと、桃音はスッと顔を上げ、その顔に笑みを浮かべた。

いまにも、泣き出しそうな。


「もう私にチャンスはないのに、釘を刺しに来たの?」


羽月はその言葉に首を振る。
あげないとは言ったが、それは羽月自身の決意のようなものであり、決して桃音に対して攻撃的な意味をもっている訳では無い。
しかし本人以外からしてみれば、その決意は先日の仕返しのように聞こえるだろう。


「この間の答えを、訂正したくて」


真面目に答える羽月からフッと視線を外した桃音は、羽月を、そして自分を嘲るように首を振った。


「意外と残酷なのね。あなた」


「……ごめんなさい」


「別に謝る必要ないわ。…なんとなく、わかってたもの。深夜くんにとって貴方がただの友達じゃないことくらい」


「振られちゃったんだ、わたし」と呟く桃音を見て、羽月は思わず口を挟んだ。


「実は、桃音ちゃんに聞きたかったことが他にあって…」


てっきり宣戦布告が本題だと思っていた桃音は、丸い瞳に羽月を映す。
心当たりを探したが何も思い浮かばなかったため、聞き返すしか無かった。


「私に、聞きたいこと……?」


「うん。その…答えたくなかったら、それでいいんだけど…」


聞きたいことと意気込みながら、随分と下手に出る羽月に眉をひそめた桃音だったが、次の一言に息を飲んだ。


「もしかして、桃音ちゃんって家族と上手くいってなかったりとか、いじめにあってたりとか…する…?」


桃音が悩んでいることがあるのは事実だ。
しかし桃音が驚いたのは、目の前の彼女にはそのことを一切告げていないこと。
なのに羽月は言い当てた。
桃音の胸の奥にある悲鳴を。


「な、んで……」


揺れる瞳を見つめて、羽月は先日の桃音の表情を思い出した。

『深夜くんは、きっとこの子に騙されてるのよ!だってそうでなきゃおかしいでしょ!?深夜くんが私よりこの子を優先するなんて…!』

そう言って泣き出しそうに笑った顔に、見覚えがあったから。

辛くて、わからなくて、どうしようもなくて。
自分の感情がぐしゃぐしゃになった時に浮かんでくる笑みを、羽月は知っている。

それは浮かべたことも、見たことも。


「なんとなく、そんな気がしただけ」


でもそれは告げずに、羽月は窓辺へ歩きカーテンを開けた。太陽の光が部屋いっぱいに散らばっていく。カーテンを縛りながら羽月は陽の光を浴びる。


「やっぱり陽の光はいいね」


いきなり明るくなった室内に腕で目を覆っていた桃音は、ゆっくり手をおろし何度か瞬く。
目がなれてくると羽月に目を向けた。
窓辺に佇む羽月は儚く、日光はその白髪をより美しく魅せた。


「深夜くんが怒るわけね。とっても綺麗だわ」


外を眺めていた羽月は不意にかけられた言葉を聞き取れず、首を傾げる。
桃音はもう一度言う気がないようで、口に出したのは違う言葉だった。


「私の悩みが知りたかったの?」


「そういう訳じゃ…ううん、そうなのかも」


否定されるかと思いきや、返ってきたのは肯定だった。羽月自身も消化しきれてないのか、視線をさ迷わせながら右手は髪をいじっている。


「私はただ」


手を止め、桃音の瞳をまっすぐ捉えた羽月はふわりと微笑んだ。


「聞いてもらうと不思議と楽になるんだよって、知って欲しかったの」


カチッと時計の針が進む。

進んだのは、時だけではないようだったが。


「………聞いてくれる人なんて、いなかったわ」


フッと羽月から目をそらすと、桃音は掠れた声でそう零す。
その様子を見て、羽月はかつての自分を重ねる。
“聞いてくれる人がいない”“誰にも助けて貰えない”
その思いはよく分かる。分かるからこそ、それが間違いなのだということも理解出来た。

“聞いてくれる人がいない”は“自分から伝えようとしないから”。

“誰にも助けて貰えない”は“助けを求めていないから”。

しかしそれは、経験しないと分からないものなのだ。
だから。


「桃音ちゃんが望むなら、何も言わない。聞いたことは忘れる。だから」


ゆっくりと羽月は桃音の元に歩み寄り、膝を折り目線を合わせた。


「私じゃ、ダメかな」


同情からではなく、ただ優しい声色に思わず視線を合わせる桃音。


「私は聞くよ、桃音ちゃんの声」


先日、なかなか話が切り出せなかった羽月に深夜がしてくれたように。
今度は羽月が『聞く側』になろうとしていた。


「………わたし、またあなたを傷つけちゃうかもしれない」


羽月を見つめる視線は酷く不安げで。
この少女は、本当はとても怖がりで甘えたがりなのだと、少しだけ感じることが出来た。


「辛くなって、またあなたに当たっちゃうかも…」


「それでもいいよ。受け止めるから」


それでも羽月の声は柔らかく、受け止めると言った言葉は嘘ではないと信頼できた。

桃音は静かに動く。
自分が座っているベッドに、もう1人分のスペースを作る為に。


「聞いて、ほしい。───羽月さん」


初めて呼ばれた自分の名に羽月は顔をほころばせると、力強く頷いたのだった。




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