クレオ*̣̩エシス

ιστορία*.4.5─中編─




九重家は、ごく一般的な家庭であった。
父と母、兄そして妹。
桃音はそんな家の長女である。

両親は特に大きな喧嘩もなく、優秀な兄を桃音はとても尊敬し、憧れていた。
みんなが仲良く、時に言い合い、支え合っているような、ありふれた家庭。
面白みがあるわけではなかったが、桃音はこの生活に満足していた。

そんなある日。

桃音が小学2年生になる頃、突如その日常が崩れ始めた。
なんの前触れもなく、母がヒステリックを起こすようになったのだ。
初めは誰もその事態に着いて行けず、ただ我武者羅に母を止めるしか無かった。
頻繁に起こるわけではなかったことが幸いだったが、それも最初だけで時が経つにつれヒステリックを起こす頻度は格段に増えていった。
徐々に父も痺れを切らし、両親の激しい口論が昼夜問わず響くようになった。
初めの頃は必死になって止めに入っていた兄も、父にまで拒絶されたことを境に、部屋に閉じこもるようになってしまった。
幼い妹はただ泣くばかり。

もう正常なのは桃音しか残っていなかった。

両親を止め、妹を慰め、兄を気にかける。
凡そ6・7歳の少女が出来る所業ではない。
それでも桃音は必死だった。
自分が壊れてしまえば家族は終わりだと直感していたから。

それでも。
やっぱり、辛くて。

隠れて泣くこともあったが、それを誰かに話すことは不可能だった。
やろうとは、しなかった。
どうせなんの証拠もない。助けて貰えない。わかって貰えない。
そんな確証もない諦めが、桃音を縛り付けていた。

初めてヒステリックが起きてから半年程が経過した頃だった。
何もかも嫌になっていた桃音と深夜が出会ったのは。
公園の隅、あたりも暗くなりもう殆どの子供達は家に帰って行った時間帯だった。
1人ブランコに座り、漕ぐ元気もなかった桃音に深夜は優しく問いかけたのだ。

「隣、いいかな」

知らない少年からの申し出に困惑しつつも、断る理由もないので曖昧に頷く桃音。
深夜は隣のブランコに座ると、少しだけブランコを揺らし始めた。

「もうみんな帰っちゃったな」

独り言のようだった。
だから小さく相槌を打つだけに留める。

「帰らないのか?」

何気なく告げられた問いに、桃音は聞き返していた。

「あなたこそ」

「そうだな。確かに俺もここに残ってる。………まだ、帰れないんだ。約束したから」

やくそく…?と小さく呟いた言葉が深夜に届いていたかは分からないが、深夜はそれ以上何を言うでもなく、控えめにブランコを漕ぎ続けるだけだった。

暫く続いた沈黙を破ったのは意外にも桃音だった。

「帰りたく……ない…っ」

振り絞るように零れた言葉の辛そうな響きに、深夜はブランコの揺れを止める。
そして桃音の目の前に行き、目線を合わせた。

「どうしてだ」

優しい、声だった。
全てを受け入れてくれるような、そんな柔らかさを持っていた。
だから、無意識に声が溢れた。

「だって…っ。帰っても…辛くなるだけだもん……!」

溢れてきた涙を乱暴に拭う桃音。
泣いてはいけないと、心のどこかでストッパーが働いてしまった。
桃音の様子を見て、深夜は素直に泣けないのだと悟ったのだろうか。
優しくその頭に手を乗せ、幼子をあやすように撫でた。

「そっか。俺と一緒だな」

俯いた顔が、上げられなかった。
どんな表情で深夜がその言葉を発したのか気になったが、上げてはいけない雰囲気があったからだ。

撫でられていた手が止み、桃音は顔を上げる。
深夜の表情は微笑みだった。
一見すれば穏やかな、しかし少しだけ全てを諦めているような、微笑み。
鏡で見る自分に似ている、と思った。

「それじゃ、俺はそろそろ行くよ。お前もなるべく早く帰るんだぞ」

気が付いたら、帰ろうと振り返った後ろ姿を呼び止めていた。

「名前…っ!教えて…!」

深夜はあまり感情の見えない顔に、少しだけ驚きを称えて振り返る。
そして頬を緩めると、静かに名を告げた。

「紅深夜。お前は?」

「九重、桃音」

桃音、な。わかった。と覚えるように呟く深夜に桃音は縋るように問いかけた。

「また、会える…っ?」

その問いに深夜は少し困ったような顔で答える。

「どうかな」

そしてこうつけ加えた。

「もしかしたら、もう会ってるかも。小学校きっと同じだろ」

桃音の瞳に光が宿った。
学校に行けば、深夜に会える。
それが桃音にとって、何よりも救いになった。




───────────────。




「それから私は、学校で深夜くんに会うことだけを生きる目的にして……」


そこまで言い、桃音はちらりと羽月の表情を盗み見る。話している最中は気にかけている余裕がなかったから。

その表情を見て固まる桃音。


「どうして、泣いてるの」


「えっ……」


指摘され、羽月は漸く自分が涙を流していることを認識した。
指で頬を拭うと、雫が肌を濡らす。


「ごめん。言葉が、見つからないんだけど…」


1度目を伏せ、羽月は言葉を吟味する。
どんな言葉をかければいいのか。


「ずっと1人で、頑張ってたんだね」


あれこれ考えてもいい案は浮かばないと思い、羽月は自分が掛けられてうれしかった言葉を思い出す。
あの時深夜に肯定して貰えたことが、何より嬉しかったから。

その考えは正しかったらしい。


「───っ」


桃音の瞳に涙が浮かんだ。
そして涙を拭おうとしたので、羽月はそれを優しく静止した。
驚いて羽月を見つめる桃音の瞳からは涙が次から次へと流れ落ちていった。


「泣いても、いいんだよ」


微笑みと共にそう告げると、桃音の顔が涙で歪んだ。
もう、それを乱暴に拭おうとはしなかった。
桃色に染まる頬と時々口から溢れ出る嗚咽が、桃音の今までの苦悩を表しているようで。


「よく、頑張ったね」


優しく桃音の肩を抱く。
とめどなく流れていく涙と控えめな泣き声は、9歳の少女であるということを再認識させられる。
自分よりも、この少女は3つも年下なのだと思い、羽月は唇を引き結ぶ。
辛かっただろう。
誰にも頼れない苦しみは、羽月もよくわかっているから。


「1人で頑張るのは辛いよね。誰にも言えないのは、苦しいよね」


でも、それは違うのだと。
もう“私達”は、助けを求めてもいいのだと。
この少女に伝えたかった。


「それでも頑張り続けた桃音ちゃんはすごいよ」


私は───そうは出来なかったから。

羽月の口の中だけでつぶやかれた言葉は、空気には乗らなかった。


「だから、もう大丈夫。これからは私達が助けるよ。私も、深夜も…幽見さんも花も。みんな痛みが分かるから」


自分がそうであったように。
そして今度は、助ける側でありたいと願ったから。
今の羽月なら、桃音の力になれる。

いつしか桃音の涙も収まり、赤らんだ瞳を羽月に向けた。


「でも……深夜くん、怒っているでしょ」


「そんなこと……」


「だって、愛する人が傷つけられたんだもの。怒らないわけない…。私だって、分かるわ」


寂しそうに、後悔するように笑う桃音に目をやり、次に羽月は扉の方へ目をやった。


「じゃあ、私の役目はここで終わりかな」


その言葉に、桃音は瞬く。
役目?私の?
どういうことだろう。

不思議そうに首を傾げる桃音に微笑みかけながら、羽月は扉に向かって歩き始める。
その口元には、誇らしげな笑みが浮かんでいた。


「お邪魔な私は、この辺で帰るね。あとは───」


ゆっくりと扉を開けると、外に目配せをしてから桃音を振り返った。
やり切った達成感に顔を綻ばせながら。


「“2人で”お話してね」


ドアは閉めずに出て行った羽月を見て、桃音はふと我に返る。
呆然としているうちに帰ってしまったため、お礼を言いそびれてしまった。
あんなに、助けてもらったのに。


「なんだか、桜みたいな人」


儚く散っていくのに、人々に圧倒的なまでの存在感と印象を与える人。
桃音にとって、羽月はそういう人物だった。
出ていく前の羽月の表情を思い出し、桃音は1人微笑む。あんなふうに柔らかに笑える人だとは思っていなかったから。

それも、“彼”のおかげなのだろう。




「羽月が桜、か」




不意にかけられた声に、桃音は弾かれたように扉の方へと視線を向ける。
驚きのあまり見開かれた瞳に映ったのは、紛れもない自分の初恋の人───深夜だった。


「なん、で……」


「確かに…生き急いでる感じなんて、そっくりだな」


桃音の質問には答えず、深夜はドアを閉める。
いきなり現れた深夜に動揺を隠せない桃音は、深夜と目を合わせられずにいた。
深夜はそんな桃音の様子をさして気にする様子もなく、先程羽月がカーテンを開けた窓へ向かって歩いて行った。
ただ何も言わず窓を眺める深夜が何を思っているのか分からない桃音は不安でいっぱいだったのだが、ぐるぐる考える頭の中で、一つだけ確かに言わなければならないことを思い出した。


「あの、深夜くん」


声を掛けるのは少し緊張したけれど。


「この間、羽月さんに酷いこと言って……ごめんなさい…」


立ち上がり、頭を下げる。
羽月は謝っただけで許してくれたが、あんなに激怒していた深夜のことだ。
許してくれないかもしれない。

不安で震える手を握りしめ、桃音は深夜の答えを待った。
暫く沈黙していた深夜は、軈て静かに口を開いた。


「羽月には、もう謝ったんだな」


「うん」


「羽月は許したのか」


「うん。そう…」


感情の読めない声色に、顔が上げられない桃音。
病室になんとも言えない沈黙が降りる中、カチリと時計の針が進んだ音を境に、深夜が息をついた。


「そろそろ顔、上げてくれ。大丈夫。羽月が許したんだったら、俺が言うことは無いよ」


恐る恐る顔を上げると、深夜は困ったような笑みを浮かべていた。
予想外の反応に、桃音は小さく問い掛ける。


「怒って、ないの……」


「怒ってるよ。でも、お前も反省してるから羽月に謝ったんだろ。それで羽月が納得してるなら、俺が口出しする必要は無い」


怒っていると言う割には、その言葉や声からは温かみが感じられた。
思わず安心して桃音は震える息を吐き出した。
桃音の怯え様に、先日の自分の行いを思い出したのか、深夜は申し訳なさそうに眉を下げた。


「俺の方こそ、この間は悪かった。いきなり殴りかかろうとして…」


言葉にして、自分がどれだけ危険な行為をしようとしていたかを認識し、深夜は深く頭を下げた。


「怖い思いさせて、ごめん」


謝ることは沢山あっても、まさか自分が謝られる側になるとは思っていなかった桃音は、慌てて声を掛ける。


「ど、どうして深夜くんが謝るの…!顔上げて…!」


「どうしてって……」


渋々顔を上げた深夜だったが、納得していないようだ。桃音は羽月が出ていったドアにふと視線を投げる。


「私は深夜くんの大切な人を傷つけたのよ。怒られて当然よ…」


言ってしまった言葉は消えないからこそ、今となっては後悔しか残らない。
あんなに優しい人の心の傷を、何も知らない自分は抉ってしまったのだ。
本当なら、謝っても足りないだろう。
そんなもので、心の傷は塞がらないのだから。


「桃音……」


後悔が滲む視線を向けている桃音を見つめ、思わず名を呟く。
あの時は精神が揺らいでいて、自分が制御できていなかっただけで、本当の九重桃音という少女は心優しい女の子なのだ。


「そういえば、羽月さんが“あとは2人でお話してね”って言ってたんだけど……」


「え、あ、あぁ……そうだな」


そんな感慨にひたっていたところに突然声をかけられたものだからつい生返事をしてしまった深夜は、自分のしなくてはならないことを忘れてはいけないと、気合いを入れ直した。


「桃音」


急に真剣な声で名を呼ばれ、反射的に返事をする桃音。何を言われるのかと目を白黒させていると、フッと深夜が目を伏せた。


「俺の適当な返事のせいで、ずっとお前を騙すような形になって……傷つけて、ごめん」


無意識に息を飲む。
次に告げられる言葉が想像できたから。


「俺は、お前の気持ちには答え──────」


視線を上げ、続きを口にしようとした深夜の口に人差し指を向けた。
その言葉を、静止するために。


「わかってるよ。深夜くんが私をそういう目で見てなかったのも。今はもう、誰よりも大切な人がいるのも」


顔が上げられない。
深夜と目を合わせたら、涙が零れてしまいそうで。
それでも、言葉を紡ぐことは出来た。


「断る返事は言わないで。私、まだ諦めたくないから」


もう勝ち目はないとわかっているけど、まだ少しだけ、恋をしていたかった。


「騙したんだから、これくらいのワガママは聞いてくれるわよね」


“騙した”という言葉に、深夜は口篭る。
こう言ったら深夜が断れないのは承知の上だった。


「あ。後で自分でも言いに行くけど、羽月さんにありがとうって伝えといてくれる?さっき言い忘れちゃって」


くるりと深夜から背を向け、わざと明るいトーンで話を続ける。
涙が零れる前に、1人にして欲しかった。
震える肩越しに何を見たのか、深夜はひとつ息を着くと桃音の頭に優しく手を置き、穏やかに別れを口にした。


「じゃあ、俺はこの辺で退散しようかな」


するりと頭上から退けられていく手。
まだ残る温もりに、堪えていた涙が溢れた。
だからだろうか。
呼び止めまいと思っていたのに、思わずその名を呼んでしまったのは。


「深夜くん…!」


振り返った深夜は、頬を流れる涙を見て僅かに目を見開いた。
桃音はそんな深夜に、今自分の出来る精一杯の笑顔を向けると、想いを口にした。




「深夜くんは、私の初恋だったよ」




穏やかな風が、桃音の髪を揺らす。
そのまま涙も一緒に攫って行って欲しかったが、気まぐれな風はそうはしてくれなかった。

深夜は一瞬だけ目を伏せたが、すぐに桃音の瞳を捉えると穏やかに微笑みを浮かべた。
様々な想いが混ざりあった微笑みだった。


「ありがとう」


たった一言だったけれど、そこに込められた想いを全て理解することは出来ないけれど。
それでも。
桃音にとっては充分過ぎる一言だった。


深夜が扉を閉めるのを見送って、部屋に静寂が戻ってきてはじめて、実感が湧いた。


「──────っ」


嗚咽が、抑えられなかった。
時計の音だけが響く空間で一人でいると、もう自分が彼に愛してもらえる可能性は無くなったのだと酷く突きつけられたような気がした。

深夜に恋をしていた。
それが幼心の憧れだったのか、本当に恋だったのか。分からないが。

それでも桃音にとって、深夜は間違いなく初恋の人だった。


「ばいばい、私の初恋の人」


とめどなく涙を流す桃音は切なげな笑みを浮かべていたが、その瞳には嬉しげな灯りが灯っていた。




< 20 / 22 >

この作品をシェア

pagetop