クレオ*̣̩エシス
ιστορία*.4.5─後編─
12時を告げるチャイムを聞きながら、深夜は階段を下りていた。
先程の桃音との会話が気にかかっているのか、その表情は明るくはなかった。
本当にあれでよかったのか。
桃音を傷つけてしまったのでないか。
自分の都合のいいように、話を進めてしまったのではないか。
思うところは色々あったが、迷いはなかった。
───俺が愛している人は誰だ。
「俺が…愛している人は───」
呟きながら、深夜はS105号室のドアを開ける。
そこで待っているであろう最愛の人を思い浮かべながら。
しかし、そこに羽月の姿はなかった。
首を傾げる深夜。
確かに部屋に戻ると告げられたわけではなかったが、てっきりいるものだと思っていたので思わず気の抜けた顔になってしまった。
このまま待っていてもいいが、今は無性に羽月に会いたい。
部屋には入らず静かに扉を閉めると、深夜は迷わず歩き始めた。
羽月がいる可能性があるとしたら、花姫の部屋か屋上、或いは中庭。
この間花姫に相談しに行っていたからその報告という可能性もあるが、おそらく違うだろう。
正直この真夏に外に出ているとも考えられないが。
そう思いながらも、深夜は中庭へのガラスドアを開けた。ここにいなかったら他を当たればいいくらいの軽いノリで訪れたにもかかわらず、そこに彼女は佇んでいた。
「なんでこういう時ほど当たるんだろうな」
ひとり苦笑すると、静かに近づく。
漂う空気は暑かったが、時折ドアの隙間から流れてくる風は冷房から出たものなのか、冷たく気持ち良かった。
夏の風物詩とも言える蝉の声が絶え間なく響く。
しかし場所が遠いのか、それほど騒がしいという印象は受けなかった。
あの大木を見つめ微動だにしない羽月。
今度は一体、何に悩んでいるのか。
「───わがままだな…私」
そう小さく呟かれた言葉を、深夜は聞き逃さなかった。深夜に背を向けているため、羽月の表情は分からない。それでも否定的な言葉を聞いて声をかけない訳にはいかなかった。
「どういう意味だ」
深夜の気配に全く気が付かなかった羽月は慌てて振り返ると、驚きに目を見開いた。
「いつから…」と独り言のように呟かれた言葉に、深夜も独り言のように返す。
「今さっきだよ」
「そっか……」
深夜は大木に近付くと、羽月と同じようにその幹に手を当てた。
そうすれば、少しは羽月の気持ちがわかるのではないかと思ったから。
「ちゃんとお話出来た?」
柔らかく問い掛けられ素直に頷く。
羽月もきっと、深夜が伝えられないとは思っていない。だからこれは、ただの挨拶のようなものだ。
「………俺、桃音のこと傷つけちゃったかな」
滅多に弱音を吐かない彼の不安。
予想外の言葉に羽月は瞬く。
珍しい…と口の中で呟くと、深夜は不満そうに眉をひそめた。
「なんだよ」
「えっと……深夜が弱音吐くなんて、珍しいと思って……」
率直に伝えると、深夜は恥ずかしそうに羽月の頭を撫でる。
その勢いで顔があげられない羽月。否、深夜はわざと顔を見られないようにしていたのかもしれない。
「…これでも甘えてるんだ。言わせんな…」
“甘え”と“深夜”が結びつかず、暫く羽月は呆然と撫でられ続ける。
しかし次第にその言葉の意味を理解すると、その頬が桃色に染まった。
「えっ……ど、どうした」
いきなり紅くなった羽月から、思わず手を退ける深夜。自分が羞恥に紅くなるなら分かるが、何故彼女が照れているのかが分からなかった。
「えっと…その…」
紅くなった頬を隠すように両手を頬に当て、目を逸らす羽月。
意識すると深夜の顔が見られなくなってしまった。
「改めて…私、深夜の“特別”になったんだなって思っちゃって……!」
強がりな深夜が、自分には、自分にだけは弱みを見せてくれているという事実がどうしようもなく嬉しくて、勝手に口元が緩んだ。
一方、“特別”という言葉を聞いた深夜は、ひとり納得していた。
そうだ。深夜が弱みを見せられる人。羽月こそ、自分が選んだ大切な人ではないか。
迷いなく羽月を選んだことに少しの罪悪感を感じていた胸が、僅かに軽くなった気がした。
そういえば、と思い出した深夜はまだ熱がおさまりきらない羽月に声をかけた。
「さっきの“我儘”って、どういう意味だ」
あまり我儘と縁がない羽月から出た言葉なので、妙にその真意が気になっていた。
その問いかけに落ち着きを取り戻した羽月は、深夜と目を合わせ、また逸らした。
暫く口にするか躊躇うように黙っていたが、不意に静謐な声で話し出した。
「───私はきっと、来年はいない」
今2人の間に1番暗い影を落としている事実に、深夜は硬直する。
そんな深夜を控えめに一瞥し、羽月は続ける。
「でも…深夜や桃音ちゃんには、まだ時間がある。それなら…私が深夜を諦めた方が、2人とも幸せになれたんじゃないかな…って」
口を開きかけ、言葉を飲み込んだ。
今の羽月の言葉に、我儘はなかったから。
「でもね」
静かに顔を上げ、羽月は空を見上げる。
木漏れ日を全身に受け、白髪が淡く輝く。
初めて会ったあの日によく似た、しかし羽月の浮かべる表情は、あの日とは似ても似つかないくらい晴れやかなもので。
寂しそうに、誇らしそうに。
その口元に笑みを浮かべた。
「私、我儘だから。最期まで、深夜を1番近くで見ていたい、深夜の1番になりたいって…そう、思っちゃったの」
───ひどいでしょ?
ふわりと深夜を見つめる羽月は、酷いと言いつつも嬉しそうで、笑っていた。
その姿は涙が出そうになるほど切なくて、美しかった。
「…だとしたら、俺はもっと酷いじゃないか」
「深夜が…?」
「俺は、先が長くないとわかってる人を、それでも自分だけを見て欲しくて縛り付けてるんだぜ?」
本当は、もっと色んな人に会って、色んなことをして。最期の一瞬まで後悔しないようにさせてあげるべきなのだろう。
だけど。色々な人を知ったら、羽月は自分から離れて行ってしまうのではないか。
彼女は世界を知らなすぎるだけなのだから。
それが、怖い。
困ったように笑う深夜。
我ながら酷い男だと笑うしか無かった。
その時、深夜の視界で白銀が揺れる。
気付いた時には、深夜は優しく羽月に抱きしめられていた。
驚いて視線を落す深夜が何か言うよりも先に、羽月は小さく笑い声をあげた。軽やかに笑う羽月に、狼狽することしか出来ない深夜。
何故彼女は笑っているのだろう。
「そんな心配、しなくていいのに」
「……どういう───」
「深夜って、賢いのにあんまり人の気持ちに敏感じゃないよね。私も言えないけど」
痛いところを突かれ、思わず押し黙る深夜。
自覚があるからこそ反論ができない。
「でも、深夜はまだまだ私の事わかってないね」
この病院の誰よりも羽月をわかっているつもりだったのが、バッサリ本人に否定され、深夜は肩を落とす。
「じゃあ教えて貰えませんか、羽月せんせ」
半ば投げやりに言葉を投げつつ、ぽんぽんと頭を撫でる。
思いの外わかっていない発言は悔しかった。
羽月はクスッと笑みを零すと、するりとその腕から逃れた。
そして軽いステップで深夜の正面に佇むと、恥ずかしそうにはにかんだ。
「だって、そういう深夜を選んだのは私だよ?深夜の全部が好きで、深夜にならどうされてもいいって思ったから、私は深夜の恋人になったの」
深夜は目を見開く。
彼女の口からそんな言葉が出てくるとは正直予想外だった。
それに、そんなふうに言われたら。
この気持ちを抑えることなんて、出来なかった。
「──────そうか」
自分はこんなにも、羽月のことが好きなんだ。
羽月の笑った顔が、怒った顔が、泣きそうな顔が。
人の為に泣けるところが、人の幸せを願えるところが、人を受け入れられるところが。
自分のことを、こんなにも愛してくれるところが。
愛おしくて愛おしくて堪らなかった。
1番になりたいのは羽月だけじゃない。
1番になって、自分にだけ色々な羽月を見せて欲しい。他の人には見せたくない。ずっと自分だけを見ていて欲しい。
俺だけが、羽月の英雄でありたい。
そんな独占欲と嫉妬に溢れた自分を、彼女はそれでも受け入れてくれるというのだ。
───あぁ、羽月はどこまでお人好しなんだ。
「──────っ」
タッと地を蹴ると、深夜はふわりと愛おしい彼女の唇に自分の唇を重ねた。
頬に手を添え、その溢れ出る愛を伝えるように。
驚きに固まる羽月。
恐らく彼女にとっての初めてを自分が奪うことは、少しの罪悪感はあれど誇らしいものだった。
いつの間にか蝉の鳴き声は止み、中庭は静寂に包まれていた。
まだこのままでいたい気持ちを抑え、深夜はゆっくりと唇を離した。
目の前で固まり続ける羽月は、薔薇のように真っ赤になっている。
茫然と深夜を見つめる様が、何故だかおもしろく思えてきて、深夜は小さく笑みを零した。
「“どうされてもいい”って、こういうことなんだよ。羽月」
いきなりこんなことをして、嫌われてしまっただろうか。
そんな一瞬の不安は杞憂だった。
何故なら。
「私っ………こんなに幸せで…いいのかな……」
顔を隠すように手で覆い、羽月は唸るように言葉を紡ぐ。
しかし深夜は、掌から隠れきらない口元が微かに緩んでいるのを見逃さなかった。
どうやら、幻滅されてはいないようだ。
「いいんだよ。俺はお前を幸せにすることだけを考えてるんだから」
大袈裟かもしれないが、これは本心だった。
彼女にとって何が幸せなのか。
そのために、何を犠牲にするのか。
最近の深夜の頭の中はそんなことばかりだった。
「………びっくりした」
微かに聞こえる程度に呟かれた言葉に、思わず苦笑する深夜。
「ごめん。羽月のこと好きだなって思ったら、つい」
いやならもうしないけど、と少し意地悪そうな笑みを浮かべると、羽月は深夜の胸にトンッと拳を当てそのまま寄り添った。
「いやとは、言ってない」
でも…今日はもう許して、と付け加えられた小さな言葉はしっかりと深夜に届いていた。
そんな羽月が愛おしくて、深夜はその背に手を回した。大好きな彼女が、自分のことを大好きだと言ってくれて、こうして触れ合えるところにいて、誰にも、何にも邪魔されない。
あぁ、なんて幸せなんだろう。
しかし、それが長く続かないことは、この2人が最もよく知っていた。
表面上には見えないが、2人には当人たちにしか分からない焦りがあった。
無意識に、羽月を抱き締める腕に力が入る。
「───羽月」
確かめるように名を呼ぶと、小さく応答があった。
「羽月」
「うん」
「羽月…っ」
「うん。ここにいるよ」
どんなに呼んでも、この不安は消えない。
羽月が死ぬ可能性が高い、今の状態では。
「絶対……死なせない……っ」
深夜に見えない場所で、羽月の唇が緩く弧を描く。
その言葉は本心でも、それが不可能なことくらい羽月はよく分かっている。
それでも───たとえ近いうちに死が待っているのだとしても。
深夜にこんなにも想われているという事実だけで充分だった。
「うん。ありがとう」
だから、気が付かなかった。
この時、深夜がどんな顔をしていたのか。
深夜がどんな思いで
その言葉を口にしたのかを───
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同日の夜。
丁度月が出てきた頃。
羽月が寝たのを確認し、深夜は病室を出た。
行き先は幽見が、そして院長先生がいるであろう診察室。
闇に包まれる廊下に、静かな足音だけが木霊する。
自分の決定に不安はあれど、後悔はない。
それは、凛とした佇まいからして明らかだった。
「羽月は…死なせない。死なせてやらない…」
呪文のように、言い聞かせるように、その言葉を口の中で転がす。
決意は、変わらない。
軈て診察室の前まで来て、深夜は深く息を吐いた。
その口元に微かな苦笑とも自嘲とも取れる笑みを浮かべると、瞳を閉じた。
「───ごめんな、羽月」
瞼に覆われていたエメラルドが露になる。
そこに灯る光は、誰にも消すことの出来ない。
揺るがない愛だった。