クレオ*̣̩エシス

ιστορία*.5─中編─





うるさいくらいの心臓を静めるため、そっと左胸に手を当てる。ひとつ深呼吸をするも、鼓動は静まるどころか加速しているようだった。

夢月の病室S109号室の前に立った羽月は、あと一歩が踏み出せずにいた。
本来ならS棟はモリンシ患者が生活する病室が並んでいる。しかし今は他に空きがないそうで、夢月はモリンシ患者ではないにもかかわらず、S棟で療養している。

ふと蘇ったのは、ここに来る前にかけられた言葉。
“怖くなったら、帰ってきてもいい”
正直に言えば、今すぐ逃げ出したいほどには怖い。足も、手も、震えている。

本当に逃げてしまおうか。

羽月は俯く視線を無理やり上げると、軽く拳を握る。
そしてその勢いのまま、扉を叩いた。震える手は言うことを聞かず、2回ノックしただけで3回分の音が出たが。


「───どうぞ」


凛とした声に、息が詰まる。
羽月が大好きで、怖くて、憧れている声。

ゆっくりと取手を握り、恐る恐る扉を開く。開け放たれた窓から差し込む光が、ベッドで佇むその人を煌々と照らしていた。


「おねえ、ちゃん…」


掠れた呟きは、無意識に空気に乗っていた。

夢月は上半身を起こし、顔は窓の方に───羽月を見ないように背けていた。陽射しを受けて淡く光るのは、栗色の髪。本来羽月が持って生まれるはずの色だった。

緊張で思考が停止した羽月は、扉を開けたまま立ち尽くしていた。夢月は近づいて来ないことを不審に思ってか、静かに振り返る。視界に姿を捉えると、感情の読めない声で呼びかけた。


「早く入ったら」


「あ…うん…っ」


慌てて扉を閉めると、数歩中に進む。しかしベッドのそばまで寄る勇気はなく、結局離れた場所に立つことしか出来なかった。

気まずい沈黙が流れる。言いたいことが沢山あったはずなのに、羽月の唇は接着剤でくっついたかのように離れない。どうしよう。と、ロクに働かない脳が叫ぶ。どうしようもこうしようもないというのに。
長い沈黙の後、羽月が出した答えは彼女らしいものだった。


「ごめんなさい…!」


勢いよく頭を下げる。視線をさ迷わせているよりも、ずっと楽だと感じてしまった。


「は…」


「私が生まれたことも、いじめられたことも、お母さんが…倒れたことも、…お姉ちゃんを苦しめてる、ことも」


謝るしかなかった。
自分の罪を、認めるためには。
認めて、姉から罰を貰うためには。
自分は断罪されなければいけない存在だと、思い込んでいたのかもしれない。

だから忘れていた。自分がどうして、姉を怒らせてしまったのかを。


「あんたのそういうところが…大っ嫌い…っ」


息を飲む。
秒針の音が、やけに響いて聞こえる。
汗が流れて、彼女の紅髪を伝って床へと落ちた。


「お姉ちゃん、私───」


「かえって…っ」


顔を上げ、思い切って発した言葉は、何かをこらえるように震えた声に遮られた。
その声色を、葛藤に塗れた言葉を聞いたら、言いたいことはあれど口に出すことは出来なかった。


「…わかった」


項垂れる羽月。じわりと目尻に滲むものに気が付かないふりをして、姉に背を向ける。ドアを開けると、一陣の風が羽月の白髪を攫った。
意を決してくるりと振り返ると、彼女は震える唇を無理やり動かし言葉を紡いだ。


「また、来るから…っ」


そして言い逃げをするように、立ち去った。中庭に続くドアを勢いよく開け、脇目も振らず真っ直ぐ走る中庭を経由して反対のドアまで行くのが、自分の病室までの最短ルートだと知っていたから。行きは心が決まらず、わざわざ長い廊下を時間をかけて歩いていたが、今はただ帰りたい。

室内へのドアを開けると、目の前はS105号室。その下には彼女と、その恋人の名が綴られている。
ノックをせずに、扉を開ける。
顔は上げられなかった。


「羽月…!!」


直前まで挑戦していた知恵の輪を投げ捨てながら、深夜は羽月に駆け寄る。俯いたままの彼女は、表情が見えない。しかし、肩が小さく揺れていることに気が付き、優しくその背に腕を回した。


「よく、頑張ったな」


暖かい声に、緊張が解ける。

鋭く息を吸い込む音が聞こえたかと思うと、羽月には珍しく声を上げて泣いたのだった。




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「なるほど。そういう事情でしたの」


約1時間後。丁度おやつを持ってきた幽見と共に、S105号室には花姫と桃音もいた。
どうすればいいか分からず落ち込む羽月を慰めたものの、自分だけでは力不足だと感じた深夜が、先日の説明も兼ねて集まろうと提案したのだ。

テーブルの上には人数分の紙コップと大きなペットボトルに紅茶とカフェオレ。ボウルの1つにはチョコレート、もう1つにはビスケットが盛られていた。


「あんな取り乱した羽月さん初めて見たから、びっくりしたけど…。お姉さん、無事でよかった」


「あの時は、ごめん。2人のこと放ったらかしにしちゃって」


「それは気にしないで!しょうがないもの」


心配していることがありありと分かるほど眉を下げ、桃音は答える。花姫も神妙な面持ちで2人を見つめていた。


「それで、ね」


恐る恐る切り出した言葉はそこで止まり、羽月はギュッとズボンの裾を握る。これから自分は他の人を頼ろうとしている。前回幽見に助けを求める時も、相当な覚悟を決めたのだ。羽月にとって、頼るということはそれだけ勇気のいることだった。
それでも、現状を変えるためには、人に頼ることも必要だと学んだから。


「私は、お姉ちゃんを怒らせちゃったけど、どうして怒らせちゃったか、わからないの」


正直に言えば、情けなかった。花姫が、桃音が、羽月に心配の眼差しを向ける度に、己の無力を感じたから。けれど同時に、こんなに自分を心配してくれる人が増えたことが、とても嬉しかった。2人と向き合うためにも、勇気を出そうと思った。


「だから、2人の力を貸してほしいの」


真剣な表情で2人を見つめる。説明も勢いも足りないかもしれないが、これが羽月の精一杯だった。


「えぇ。私にできることなら何でもいたしますわ」


「私も!羽月さんに恩返しできるチャンスね」


柔らかな返答に、吐息が零れる。当たり前のように、嬉しそうに、彼女たちはそう答えてくれた。ふたつ返事で答えてくれる優しい人たちと友達になれたことが、誇らしい。

一方、隣でいつ口を挟もうかとタイミングを図っていた深夜は、思わぬ羽月の成長に驚きを隠せずにいた。羽月が『助けて』を言えないことは、深夜も知っている。羽月の1番近くにいると自負している深夜でさえ、その言葉を引き出すのは難しいというのに。彼女はいつから、誰かを頼れるようになったのだろう。

ふと視線を感じて見回すと、にこにこと笑顔の幽見と目が合った。その笑顔を見て察した深夜は苦笑を零す。まるで『どう?羽月ちゃん、成長したでしょ?』と言わんばかりではないか。なんとなく悔しさを感じた深夜は、半ばヤケになりながら会話に混ざった。


「ほら、桃音も下に妹がいるだろ。花姫も確か姉弟いるんだよな?だから何かいいアドバイスが聞けるんじゃないかと思って」


「そうねぇ。でも、私はおにぃちゃんもいるから、あんまりお姉ちゃんって感じはしないわね…」


「私もいるのは弟ですから、全く同じ状況というわけではないですけれど。それよりも、もっと適任がいらっしゃるのではなくて?」


ちらりと、花姫は幽見を一瞥する。それで気がついたのか、羽月もハッとした様子で振り返る。一方幽見は、小首を傾げて問いかけた。


「私、花姫ちゃんに話したかしら?」


「いえ。ですが、以前羽月が嬉しそうに話してくれたことがありますの。『幽見さんを本当のお姉さんのように大切に思っている』と。その時に少し」


「花…!」


思いがけぬ暴露に狼狽する羽月。花姫は小さく笑みを零すと、再び幽見へと視線を向けた。


「羽月と歳の近い妹さんがいらっしゃるのでしょう?この中の誰よりもお姉さんの気持ちがわかるのでは?」


その問いかけに苦笑で返す幽見。自分のカフェオレを一口飲むと、僅かに声のトーンを落として呟いた。


「結局のところ、何を思っているかは本人にしか分からないけれど…」


そこで言葉を切り、羽月へと視線を向ける。その瞳に映った不安そうな表情を見て、口元を緩めた。


「私もできるだけ力になるわ。みんなで考えましょう」


暖かい言葉に、羽月はほっと胸を撫で下ろす。最近の幽見は気を許してくれているのか、時々厳しい顔つきをする。素を見せてくれているのなら嬉しいが、美人の真顔はなかなかに迫力がある。


「さて。一旦整理しましょうか」


空気を変えるように柏手を打つと、幽見は羽月に問いかける。


「羽月ちゃんが知りたいのは、“どうして夢月さんを怒らせてしまったか”よね」


「…はい」


「羽月ちゃんは、夢月さんのことどう思ってる?」


「大好きな…尊敬してる、お姉ちゃんです」


「じゃあ、夢月さんは羽月ちゃんのこと、どう思ってると思う?」


思わぬ問いに、羽月は答えを詰まらせる。姉が自分のことをどう思っているか。嫌われているのだろうとなんとなく思っていたが、いざ言葉にするとなると、どう伝えていいかわからない。


「…多分、嫌いだと思ってる…はず、です」


「どうしてそう思うの」


「だって…嫌いじゃなかったら…」


続きを口にしようとして、ふと思い留まる。
“嫌いじゃなかったら”、なんだ。

冷たくしない?助けてくれた?愛して、くれた?

では自分は愛されていなかったか?


「ねぇ、羽月ちゃん」


名前を呼ばれ、知らぬ間に伏せていた顔を上げる。
その呼び掛けが、なんだか泣きそうに聞こえたから。


「私に教えてくれない?お姉さんとどんな日々を過ごしてきたのか」


羽月はゆっくりと頷き、今までを語った。

物心ついてからずっと姉が面倒を見てくれたこと。小学校に入るまで家から出られなかった羽月にたくさんのことを教えてくれたこと。いつも家のことをやってくれる姉に何か恩返しがしたくて、自分で洗濯をしたら水浸しにしてしまったこと。カレーを作ろうとしたら焦がしてしまったが、魔法のように美味しいカレーうどんにリメイクしてくれたこと。

自分がどんな失敗をしてしまっても、笑って「ありがとう」と言ってくれたこと。

姉との日々を語る彼女は、とても晴れやかな顔をしていて。きっと、これが羽月の本来の表情なのだろうと分かる。そしてこの頃は、こんな表情で姉と笑いあっていたのだろう。


「あと、母の日だけどお姉ちゃんに手紙を書いたことがあって。まだあの頃は文字も下手だったけど、お姉ちゃんは最後まで読んでくれて、宝物にするって───」


そこで羽月はハタと我に返る。自分に向けられる視線が、嬉しそうで、寂しそうで。同時に、自分がかつてないほど喋り続けていることを自覚したから。


「あ…ごめんなさい。私、しゃべりすぎて」


「そんなことないわ!それより…」


咄嗟に否定の言葉を口にしてしまった桃音は、そこで言い淀む。彼女もまた、夢月という人は“羽月を傷つけた”という情報しか知らなかった。
そんな桃音の違和感を払拭するために、幽見が口を開いた。


「改めて聞くけど、羽月ちゃん」


きっと今なら彼女に向けられた愛情が、理解できるのではないかと思ったから。


「お姉さんは、羽月ちゃんをどう思ってた?」


問いかけられ、目を伏せる。
確かに自分の中には拒絶された思い出が色濃く残っている。しかしそれは、今まで姉に愛を貰っていたから。だからそれを拒絶され、辛い思い出だけが残ってしまったのだ。
それでも、楽しかった思い出が、姉から貰った愛が無くなるわけじゃない。なかったことになんて、できない。


「お姉ちゃんは、私のことを大切に思ってくれていたと思います。私のこと、愛してくれてました」


あの笑顔が、暖かい声が、全て嘘だなんて思えない。
あの時は確かに愛があった。


「じゃあ、どうしてお姉さんは羽月さんに冷たくするのかしら…」


もっともな疑問に首を捻る桃音。真っ直ぐ羽月をみつめた花姫は、いつもより鋭さを纏った声で問いかけた。


「昨日お姉さんを尋ねた時、羽月はなんて伝えたんですの」


「えっと…謝った、かな。今までお姉ちゃんを苦しめてたのは私だから、それを」


「そうしたら拒絶された、と」


「うん…。“あんたのそういうところが大っ嫌い”って」


思い出せば、辛くなる。
姉の苦しそうな声が蘇り、胸が締め付けられる。
すると、これまで沈黙を貫いていた深夜が声を上げた。


「なぁ。その髪のことがあった時って、確か“自分はもう死ぬから”的なこと言ったんだよな」


「あ、これ…?うん…そうだったと思うけど」


紅髪に手を添え、首を傾げる羽月。顎に手を当て思案した深夜は、もしかしたら、と推理を口にした。


「夢月さんは“お前が自分を否定した”から怒った…?」


全く考えもしなかった答えに、羽月は声を漏らす。どうして自分を否定すると姉が怒るのか、想像できなかった。


「これはあくまで、俺の推理。だけど、実はずっと思ってたこと」


差し込む夕日が深夜の瞳を照らす。力を込めて見つめる瞳は、いつもと違う、淡い黄金色に輝いていた。


「俺は羽月のことが好きだ。どれだけお前が自分のことを嫌いだって言っても。だけど、そんなお前のことを羽月自身が嫌いだって言うのは…少し、辛い」


「どうして…?」


「うーん、言葉にしようとすると悩むけど…」


小さく唸りながら視線を落とし、深夜はその白髪を一束掬う。夕日色に染まる、光の糸を。


「好きな人には、俺の好きなものも好きでいて欲しいから、かな。例えそれがその人自身でも」


さらさらと指を通り抜ける髪は、辺りに細かい光を散らす。目を細めてそれを見つめた深夜は、やがて羽月の瞳を捉えると、困ったように笑った。


「誰だって、好きなものを否定されたら悲しいだろ」


切なげな笑みに、息が詰まる。
自分のことは、いくらでも悪く言っていいと思っていた。周りからも、そう言われてきたのだから。しかし、それで深夜に──大切な人にこんな表情をさせてしまうなら、きっとダメなのだと思い知らされた気がした。


「そうですわね。私にも、思い当たることがありますし」


深夜の意見に賛同したのは花姫だった。常に凛とした彼女にしては珍しく、眉を寄せて不安そうな表情で告げた。


「自分はあの子のために、あの子に笑って欲しくて尽くしてきた。けれど、その子自身が自分を否定すれば、これまでの努力さえ否定されたような気持ちになってしまう」


僅かに顔が伏せられる。それに合わせて橙が流れ落ちる。“橙雨花姫”が人前で顔を伏せる意味は、重い。


「もしかしたら、お姉さんもそうだったのかもしれませんわね」


自分のターンはここまでとでも言うように、花姫はゆっくりと手元の紙コップに口をつける。それにつられ、羽月も紙コップに、深夜と桃音はチョコレートにそれぞれ手を伸ばす。

しばらく無言で、それぞれ甘味に舌鼓を打つ。その沈黙を破った声は、酷く不安げに揺れていた。


「本当に、お姉ちゃんは私のために怒ってくれたのかな…」


「…どうだろうな」


そんな不安を、深夜はバッサリと切り捨てる。しかしそれは、否定ではない。言葉の表面だけを取ってしまうあの頃とは違う。今ならわかる。深夜のこれは、不器用な励ましだ。


「けど、俺の予想が正しいにしろ間違ってるにしろ、昨日まで羽月が伝えたいと思ってたことと、今伝えたいと思ってることは、違うんじゃないか」


羽月が目を見開く。そうだ。今の羽月には、幽見が思い出させてくれた楽しかった思い出がある。


「だからあとは、どうやってそれを伝えるか…だろ?」


「うん…っ」


背中を押す言葉に、力強く頷く。

これまでは、こんな風に悩みを誰かに相談することなんて出来なかった。それどころか、自分の行いを客観的に振り返ることなんてしなかった。だから怒らせたまま、どうすればいいか分からずに、ただ項垂れることしか出来なかった。

でも。
今は、みんながいる。助けてくれる人が、いる。
それがどれだけ素晴らしく、奇跡のようなことか。
死ぬ前に、こんなに素敵な人たちに出会えたことが、本当に嬉しかった。


「それじゃあ、お姉さんの地雷を踏まないようにしながら、羽月さんの気持ちを伝える特訓をしなくちゃ!」


「そうですわね。羽月はすぐにご自分を卑下しますから」


卑下って…そうかな。お前は無意識だから厄介なんだよ。なら、無意識に自分を認められるようになることが目標ね。褒める役が3人もいるのですから、きっとすぐですわ。

不安そうに笑う羽月を中心に笑い合う。
異なる環境で育ち、同じような痛みを持つ4人。
だからこそ、お互いを埋められる。理解できる。

だって彼らはみんな、“愛”を求めていたのだから。


「それじゃ、みんな。私は仕事があるから一旦席を外すわね」


少なくなったチョコレートをビスケットの入ったボウルに移す。片手にそれを抱え、幽見は彼らに微笑む。
扉を開きながら、花姫と桃音に夕食はこちらに持ってくると伝え、部屋を出ようとしたところを羽月に止められた。


「幽見さん…!ありがとうございました…っ」


扉に駆け寄りながら、羽月は笑顔を浮かべる。
幽見のおかげで、自分の勘違いに気がつけたから。
そんな羽月を見やると、幽見はふわりと微笑み優しく頭を撫でた。


「私はただ“お話し”しただけ。大切なことに気付けたのは、羽月ちゃん自身の力よ」


認めて貰えたことが嬉しくて、照れたようにはにかむ。その姿が新鮮で、どこか懐かしかった。


「…アタシも、お節介をやいてこようかな」


口の中で呟かれた言葉に、唯一気付いた羽月は首を傾げる。幽見は微笑みで追及を拒むと「作戦会議、楽しんでね」と去って行った。




‧✧̣̥̇‧✦‧✧̣̥̇‧✦‧✧̣̥̇‧✦‧✧̣̥̇‧✦




ところで、幽見李逢の勤務時間は8時から17時である。しかし彼女は病院に寝泊まりしていることに加え、自分の立場から勤務時間外も仕事をしていることが多い。勿論その分の給料は出ないが。

羽月たちと別れたあと、普段の業務を行った幽見はもうひとつの仕事に取り掛かるためにとある病室を尋ねていた。


「こんにちは、夢月さん。お加減いかがですか」


ノックの後、「どうぞ」とはっきり告げられた声。“彼女”と対照的な声色に、思わず苦笑する。
羽月は夢月のことを憧れだと言うが、良く言えば凛とした、悪く言えば攻撃的なこの態度は優しい雰囲気の彼女には似合わないだろう。それにあの目立つ容姿でこの態度を取れば、要らぬ恨みを買うことは想像にかたくない。幽見自身が、どちらかといえば夢月と似たタイプだからそう思うのかもしれないけれど。

扉を開けると、冷たい風が吹き抜ける。どうやら窓を開けたままだったらしい。この季節のこの時間では、もう風は冷たいだろうに。


「ごめんなさい。窓、開けたままでしたね。寒かったでしょう」


「…いえ、別に大丈夫です」


窓を閉めて夢月を振り返るも、返ってきたのは投げやりな返事。最後に会った時、夢月はこんなに無気力な人ではなかったはずだ。羽月が語った姉の姿も同様に。


「痛みはどうですか?痛み止め、ちゃんと効いてます?」


「はい。今は大丈夫です」


「それなら良かった。明日は9時頃に先生がいらっしゃいますから、それまでに何かあったら、遠慮せずナースコールで呼んでくださいね」


手早く身の回りのケアや物資の補充を済ませる。ふと、朝渡したペットボトルの水があまり減っていないことに気付いた。事故のショックから無気力になっているのかと思っていたが、もしかしたら原因は別にあるのかもしれない。

チラリと時計を盗み見る。
時刻は16時59分。


「そういえば、なにか家から持ってきたいものはありますか?もし良かったら、私がどなたかにお願いしますよ?」


きっとしばらく入院になりますから、と微笑んでみせる。彼女に頼れる親族がいないのは、誰よりも知っているから、あえて“家族に”とは言わなかった。


「…そう、ですね。じゃあ、後で友達に連絡を取りたいのでお願いします」


そう答えた夢月は幽見のことを見ておらず、どこか虚空を見つめているようだった。

カチッと、時計の針が進む。それを一瞥した幽見は、ひとつ息をつくと夢月を見据えた。


「夢月さん。身体が辛くないなら、少しお話してもいいですか。看護師としてじゃなくて、ただの幽見李逢として」


突然の申し出に、初めて夢月の瞳が幽見の姿を捉えた。視線に疑問を滲ませながらも、頷く。それからなにか気付いたように眉をひそめた。


「他の看護師さんは名字で呼ぶのにどうしてかと思ってたけど。あなた、羽月の担当の人だったのね」


「あら、覚えててくれたの?」


「幽見って名字、珍しいから」


部屋の隅に避けてあった椅子をベッドの傍に寄せる幽見を不審そうに眺める。羽月の担当看護師が、自分の担当でもある。偶然か、必然か。


「あなたも災難ね。私みたいな嫌いな人の担当にさせられて」


その自嘲には一種の敵意が感じられる。嘲笑とともに告げられた言葉に、幽見は首を傾げる。


「どういうこと?」


「そのままの意味。あなたは私があの子に何したか見てたでしょ」


「…そうね。あの時手当をしたのもアタシだし」


背筋を伸ばし座る。夢月を見つめる眼差しはただ真っ直ぐで、そこに敵意は感じられない。


「だからって、あなたのこと嫌ってるわけじゃないよ。寧ろ、同族かなって思ってるし」


「同族…?」


「罪悪感があるんでしょ。だから、それに押しつぶされないように強くあろうとしてる」


夢月の視線が動揺に揺れる。それに気づいていながら、さらに言葉を重ねる。


「ねぇ、あなたが羽月ちゃんに素直になれない理由はなに?何があなたを縛ってるの」


「言ってる意味が、わからないんだけど。私が素直になれないってなに」


「本当は羽月ちゃんに優しくしたいのにできないんでしょ」


「優しく?馬鹿言わないで。優しくしたい相手にあんな態度とらないでしょ」


「本当にそう?」


間髪入れず投げかけられた問いに、言葉が詰まる。
幽見は試すように目を細めて告げる。


「羽月ちゃんの入院費。誰が確認してると思ってんの」


“入院費”という言葉に、夢月は顔色を変える。思い当たることがあったから。


「いつもあなた、羽月ちゃんの入院費だけ5000円多く振り込んでるよね。どうでもいい相手に、そんなことしないと思うけど」


「それ、は…。足りないと困るから…」


「遥姫さんの方はぴったり振り込んでるのに?」


反論できなかった。事実、夢月は羽月の分だけ多く振り込んでいたから。そしてその理由は、“足りないと困るから”ではなかった。

思わず幽見から目を逸らす。このままでは、自分の暴かれたくない感情まで暴かれてしまうと思った。


「あの子のこと、誰より心配してるのに。どうしてそれを伝えないの。傷つけようとするの」


「うるさい…っ」


無意識に否定の言葉が飛び出した。
容赦のない追及が、心に突き刺さって痛い。
この人から逃げるためには、拒絶しなければ。


「今更優しくしてどうするの…!?そんなこと羽月は望まない!あんなに傷つけたのに、それをなかったみたいにすればいい…!?出来るわけない…!」


1度口を開けば、止められない。この感情の濁流は、誰にも打ち明けたこと無かったのに。自分のものでないように、言葉が止まらない。


「お姉ちゃんだから、ずっと味方でいなきゃいけなかったのに。なのに私はあの子を拒絶した。こんな私が、もう一度羽月の純粋な眼差しに見つめられるなんて耐えられない…っ」


「例え羽月ちゃん自身が望んでいたとしても?」


「羽月が?ありえない…!あの子にとって私は憎むべき相手だもの!」


うつろな瞳で見つめられ、幽見は思わず眉を顰める。
気が付くと、辺りは薄暗くなっている。いくら秋の夕暮れとはいえこの暗さはおかしい。

そして彼女はこの雰囲気を知っていた。


「私は私が許せない。あの子を傷つけた私が嫌い、いじめたヤツらも嫌い、それを止めなかった教師も、犯人を特定できなかった警察も…私たちからお父さんを奪ったおばあちゃん達も!嫌い嫌い…みんな嫌い…っ!」


両手で頭を抱え、何かを振り払うように首を左右に振る。目尻に浮かんだ涙は溢れんばかりに溜められていて、もう限界だった。


「全部消えちゃえばいいのに…っ!!」


顔を上げ、夢月は慟哭する。
それと同時、彼女の背後に黒いモヤの塊が現れた。ソレは霧状から徐々にスライム状になり、夢月を包み込もうとするように肥大化した。

瞬間、幽見の雰囲気が一転する。
鋭い視線と張り詰めた空気。
ソレを目視するよりも速く、幽見は夢月の目を塞ぐ。右手で髪をまとめていた簪を抜き、小さく「祓い給え」と呟くと、簪が紫の輝きを纏った。素早く、ソレ目指して簪を投げ刺す。キンッ───という音とともに、簪がスライムを貫き、その奥の宝石に突き刺さる。と、同時に宝石が割れ、ソレが元の霧になり散った。

部屋はもう、暗くない。


「え、あ、あの…」


幽見に目を塞がれたままの夢月が、困惑した声を上げる。彼女は部屋の異変に気づいてはいなかった。そのため、いきなり目を塞がれた形になっている。困惑するのも無理はない。
ゆっくりと手を退けられた夢月の瞳に映ったのは、先程までのお団子が解け、腰くらいまで髪を垂らして曖昧に微笑む幽見の姿だった。


「あー…ごめんね、いきなり。もう大丈夫だから」


気まずそうに落ちた簪を拾いに席を立つ。自分が立っている場所からベッドを挟んだ反対側にぽつんと落ちているそれを拾い、再び椅子に座り直す。

一方の夢月は、色々疑問はあったが何から問い掛けて良いか分からず、口を閉ざすしかなかった。


「ねぇ。今は、さっきまでとなにか違うんじゃない?」


「なにか、って…」


呆れたように口を開きかけ、ふと気付く。

顔が、上げていられる。
人の目を見続けられる。
それはここ数年出来なくなっていたことだった。


「…憑き物が落ちたみたい」


「…その通りね」


皮肉気に呟かれた言葉は、しかし夢月には届かない。


「あなた、何をしたの…」


当然の疑問に、幽見は言いにくそうに言葉を濁す。
それは“言っても分からない”ことであり、“言えない”ことでもあったから。


「大したことはしてないよ。あなたから悪いものを祓っただけ」


結局紡がれた言葉はとても簡単なものだった。
それで彼女が納得しないのは分かっていたので、追求を拒むように続けて言葉を重ねた。


「それで、憑き物が落ちた今だからもう一度聞くけど。あなたが羽月ちゃんに冷たく当たるのは罪悪感から?」


不審そうな表情をしていた夢月は、幽見の問いかけに目をそらす。先程までとはいかないが、今だってこの時間から逃げたい。


「…だってあの子は、いつまでも私のことを“いいお姉ちゃん”だと思ってるんだもの」


けれどそのためには本音を吐くことが1番早いというのもわかっていたから、渋々語り出すしかなかった。
グッとシーツを握る。出来たいくつものシワが、苦悩の数のようにも思えた。


「私はあの子を拒絶した。…酷い人間。なのに羽月は、私に何も悪くないって言うの」


辛かっただろう。それまでは普通に接していたのだから、余計に。少し考えればわかる事だった。すぐに謝れば済む話だったかもしれない。それでもあの時はそれが出来なかった。

その結果が、これだ。


「こんな私みたいにならないでほしい。私を憎んで羽月が傷を埋められるなら、憎んでほしかった」


瞳が潤む。しかし夢月はぐっとそれをこらえると、幽見と視線を合わせた。


「あなた、私と同族だって言ってましたよね。どうしてですか」


「それは…」


まっすぐ問われ、思わず口篭る。誰だって自分の罪を伝えるのには勇気がいる。


「アタシも最近まで、妹に憎まれてると思ってたから」


夢月が目を見開く。同族だとか言うからには似た境遇なのだろうと予想していたが、こんなにも同じ立場だったなんて。


「ちょうど年の差も2人と同じかな。アタシは自分の目的のために、あの子を1人にしたの」


幽見は手元に目を落とす。両手に握られた簪は金色で、紫紺のガラス玉があしらわれたものだった。丁度、彼女の瞳が光を浴びた時と同じような。


「いかないで、置いてかないでって何回も叫ばれたし、泣かれた。だからあの子にとってアタシは、なんの説明もしないまま自分を置いていった、最低な姉なんだって、そう…思ってたけど」


言葉を切り、顔を上げる。
視界に映る夢月の瞳は、なにかに怯えるように揺れている。拒絶したことを悔い、自分が拒絶されることを望みながらも、それでもきっと心の中では。


「この間、数年ぶりに会ってきたの。殴られて、罵られる覚悟でね。だけど、あの子はそんなことしなかった」


幽見はふっと微笑む。
呆れたように、悲しそうに、それでいて嬉しそうに。


「アタシのこと恨んでないのって聞いたら、“置いていったことは怒ってるけど、恨んでるわけじゃない”って、そう言ってくれたの」


思い出す。
実際に会うまでは、どんな言葉を浴びせられても甘んじて受け入れるつもりでいた。しかし対面した時、どうしようもなく怖くなったのだ。“嫌われたくない”と。自分勝手な願いだと分かっていた。それでもそう願わずにはいられなくて。

そんな幽見の予想に反して、妹は彼女を拒絶しなかった。まだ、姉と呼んでくれた。罪悪感に溢れたが、それ以上に嬉しかった。


「これはあくまでアタシの場合。でも、もしかしたらあなた達も同じかもしれない」


幽見はそっと夢月の左手に自分の右手を重ねる。
その手は僅かに震えていた。


「ねぇ夢月ちゃん。羽月ちゃんに伝えてみたら?あなたの気持ち」


「そんなの無理…っ。私はもう、あの子を傷つけたくない」


「あなたは今のあの子をよく知らないでしょ?前からは信じらんないくらい成長したのよ。だからきっと、あなたの言葉も受け止められる」


夢月の視線を真っ直ぐ受け止める。傷つけたくない、怖い、また拒絶されたくない、話すべきじゃない、あの日々に戻りたい、お姉ちゃんでいたい───。
そんな様々な感情が渦巻く瞳だった。


「それに、あの子はまた来るよ。きっと、すぐ。早く覚悟を決めないと、今日と同じことになるよ」


夢月は今日の去り際に羽月が言った言葉を思い出す。

『また来るから』

直視出来なかったが、あの時の羽月は泣いていた。
でも、その瞳は夢月が知っている羽月よりも、ずっと強く、意志のある瞳だった。
幽見の言う通り、羽月は変わったのだろうか。
今なら、傷つけずに伝えられるだろうか。

夢月が思考し始めたのを感じ取り、幽見は素早く髪をまとめ直す。そして立ち上がり椅子を片付けると、“綺麗な笑み”を浮かべた。

、、、、
「それじゃあ、夢月さん。失礼します」


そう言った幽見は、もう看護師だった。
閉まるドアを見つめ、夢月は顔を歪める。

意地悪な人だと思う。夢月の気持ちを吐き出させて、解決はしてくれない。ただ、気付かせるだけ。それでは余計に辛くなるだけではないか。


「ここからは、自分でやれってことね…」


ポツリと言葉が零れる。無意識だったが、恐らくこれが幽見の意図なのだろう。本当に意地悪で、不器用で、優しい人だ。

夕日の沈んだ窓からは、煌々と輝く月が顔を出す。
彼女らの名にある、月。

自分はまだ、夢を見てもいいのだろうか。




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