竜帝陛下と私の攻防戦
 屋上庭園からの帰り道、商店街の精肉店で奮発して買ったローストビーフとシチュー、季節のフルーツが乗ったケーキを食べ終え、此方へ転移してきた黒の軍服へ着替えたベルンハルトは縁側へ出て夜空を見上げた。
 
 まるで、二人が縁側に出て来るのを待っていたかのように、雲の切れ間から現れた満月の光が、スポットライトの様にベルンハルトへ降り注ぐ。
 物語のクライマックスシーンのような光景に、佳穂の胸がズキズキと痛み出す。

「カホ」

 差し伸べられたベルンハルトの手の上に手を重ねれば、ぐいっと彼の元へ引き寄せられる。
 顎を掴まれて佳穂が目蓋を閉じれば、降ってくる口付けは触れるだけからすぐに啄むものへとなっていく。
 恥ずかしくて、顔を背けるとかささやかな抵抗をしたいのを我慢して、ベルンハルトの舌先につつかれて佳穂は素直に口を開いた。

「んっ」

 口腔内へ侵入した熱い舌が佳穂の舌へ絡まり吸い上げる。
 身体を駆け抜ける甘い刺激に翻弄されながら、佳穂は懸命にベルンハルトの舌の動きに応えた。

「はぁ、」

 呼吸のタイミングが分からず意識に霧がかってきた頃、やっと唇は解放され半開きの口から舌が抜け出ていった。
 離れていくベルンハルトの舌と、佳穂の舌を繋ぐ銀糸がプツリと切れて互いの唇を濡らす。

「時間切れだ」

 あれだけ互いを貪るような、情熱的な口付けをしていたとは思えないくらい冷静な声で彼は言う。

 何が時間切れ? とは佳穂は聞けなかった。
 少しでも口を開いたら、堪えていた涙が零れ落ちそうだった。
 涙を堪えて、唇を噛んだ佳穂は目を見開く。
 月明かりとは異なる煌めきが、ベルンハルトの周囲を漂い始めたのだ。

 涙を溜めて見上げて来る佳穂の顔を見てベルンハルトはフッと笑う。

「カホ。元の世界へ戻りしだい、呪いの解呪法を探す。お前は呪いが解呪されるまで大人しくしていろ」
「うん、ベルンハルトさんもお元気で……」

 別れの言葉を言おうとしたのに、「さようなら」という言葉はどうしても出てきてくれない。
 声の代わりに佳穂の瞳から涙が溢れ頬を伝い落ちる。

「ベルンハルトさんっ!」

 名前を呼んだ以上の言葉は続けられなかった。
「行かないで」とは言えない。彼は異世界の皇帝陛下なのだ。この世界に引き留めることは出来ない。

 月明かりで明るい庭へ、炭を垂らしたように黒い何かが侵入してくる。

(うっ、気持ち悪い)

 グニャグニャと歪み渦を巻き始める空間に、一気に気持ちが悪くなって堪えきれず目蓋を閉じてしまった。
 ぐにゃぐにゃと地震のように揺れる地面。もう自分が立っているのが地面なのかすら分からなくなっていく。

 不安定な足元の感覚で、よろめく佳穂の頭を大きな手のひらが撫でる。それだけで安心感が生じるから不思議だ。
 上を向いて少しだけ開いた瞼から見えたベルンハルトは、今まで見たことが無いくらい穏やかな表情で佳穂を見詰めていた。

「カホ」

 強まる光に包まれたベルンハルトの輪郭が徐々に消えていき、差し出された手に咄嗟に佳穂は手を伸ばして掴んた。
 両手で握りしめる佳穂に答えるように彼女を抱き寄せ、耳元へ唇を近付けるとベルンハルトは微笑んだ。

「愛している。共に、来い」

 吐息と共に耳の奥へ流し込まれた、蕩けるように甘い囁き。
 大きく見開いた佳穂の瞳から、涙がひとしずく零れ落ちた。
 
 強烈な光が佳穂の視界全て真っ白に塗りつぶしていく。

「ワンワンッ!」

 シロの鳴き声が聞こえ、足元にふわふわした毛皮が擦り付けられる。

(シロも巻き込まれちゃう。離れさせなきゃ。でも、もう駄目)

 全身から力が抜けていき、崩れ落ちそうになる佳穂の体にベルンハルトの腕が回され支える。

 視界の全てが真っ白に覆われた後、耳鳴りと空間の歪みからくる目眩は徐々に治まっていき、佳穂の意識は途切れた。


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