仮面夫婦のはずが、冷血御曹司の激愛で懐妊いたしました
澪復活
 幸せな夢を見た。
 圭一郎の腕の中で眠りにつく夢だ。もう二度会えないと思っていた彼が目の前に現れて、あの低くて甘い声音で『愛してる』と言ってくれたのだ。
 頬に感じるシーツの感触に目覚めかけているのだと感じて、澪は心底ガッカリする。目覚めたらまたあの孤独な世界が広がっている。
 ああ、まだ寝てたいな。
 寝ても寝ても寝たりないはずなのに、どうして目が覚めちゃうんだろう?
 でもここまで深く眠れたのは久しぶり。なにせこれ以上ないくらいの幸せな夢を見ていたから……。
 そんなことを思いながら澪はうっすらと目を開ける。
 すると自分がいるベッドに背を預けて座っている人物の後ろ姿が目に飛び込んできた。
 あれは……。
「圭一郎さん⁉︎」
 圭一郎が振り返った。
「起きたのか? 悪い、うるさかった?」
 彼はカーペットに直に座り、ノートパソコンを触っていたようだ。
「い、いえ、そんなことは……でもあれ……夢じゃなかったの?」
 圭一郎がパソコンをパタンと閉じて脇に置く。立ち上がり、ベッドに屈んで澪の顔色を確認した。
「よく眠れた?」
「はい……それはもう」
 言いながらチラリと窓を確認すると外は明るかった。
「今、何時ですか……?」
 まだはっきりとしない頭で問いかけると、圭一郎は首を傾げて「十二時くらいかな」と言う。
 澪は目を丸くした。
「え? 夜のですか?」
 圭一郎が吹き出した。
「なんでだよ! 昼のだよ!」
 そしてくっくと笑っている。本当に久しぶりに見る彼の笑顔に澪の胸はキュンとなる。
「そ、そうですよね。明るいですもんね」
 とんちんかんなことを言ってしまったのが恥ずかしい。
 それにしても驚きだった。少しずつはっきりしてくる頭で澪は寝る前の記憶を辿る。確か彼が来たのは日が落ちかけた頃だったような。
 だとしたら、いったい何時間寝てだのだろう。確かに少しすっきりしたけれど。
「ずーっと寝てるから、心配になるくらいだったよ。気持ちよさそうに寝てるから大丈夫なんだろうとは思ったけど」
 言いながら彼は冷蔵庫からミネラルウォーターを出してきて澪に手渡した。
「ありがとうございます」
 確かにそれだけ寝たのだと言われてもおかしくはないくらい喉がカラカラだった。ミネラルウォーターをごくごく飲むと、冷たい水は身体に染み渡るようで美味しかった。
 飲み終えてひと息ついて、改めて圭一郎を見る。彼はラフな部屋着姿だった。
 確かここへきた時はスーツだったはずだけれど。
「圭一郎さん、昨日はここに泊まったんですか?」
「ああ、澪が離してくれなかったんだ。寒い寒いって言って」
「つっ……!」
 その言葉に、澪は真っ赤になってしまう。
 確かに寝ている間中、温かいなにかにぴったりとくっついていたような記憶がある。夢だと思っていたけれど、夢じゃなかったというわけか。
「す、すみません……」
 そのせいで圭一郎は帰れなかったというわけか。
 圭一郎がはははと笑い、澪の頭をくちゃくちゃとした。
「冗談だよ。ずっとそばにいると言っただろう? それに、おかげで俺もよく眠れた。久しぶりに」
「え……?」
 澪は首を傾げた。
 今澪が寝ているベッドは、間に合わせで伯父が用意した、安いシングルベッドだ。広くて高級なマットのベッドで毎日寝ている彼にとってはよくない環境のはず。
 ましてやふたりで使ったのだ、相当狭かったはずなのに……。
 圭一郎がベッドに腰を下ろし、起き上がる澪の腰を支えてくれる。そして優しい眼差して澪を見た。
「俺、澪の隣だとよく眠れるんだよ。はじめからそうだった。もう、今は君がそばにいないと眠れない。君がいないマンションで夜を迎えるのはつらかった」
「圭一郎さん……」
「だから、君がいるなら、俺はここに帰ってくる。……明日も明後日も」
「な、なに言ってるんですか! まさかそんなこと」
 澪は驚いて声をあげる。
 彼がこんな粗末なアパートに住むだなんて、あり得ない。
「嘘でしょう⁉︎ ダメに決まってます! セ、セキュリティだって万全じゃないのに……」
「なら、尚更だ。セキュリティが万全でないところに、愛する妻と子供を放っておくわけにはいかないからね」
「……圭一郎さん」
 子供という部分に力を込めた彼の言葉に、澪の胸は熱くなる。
 圭一郎が澪の頭をぽんぽんとした。
「今日は休みなんだけど、ひとつ用事を済ませなくちゃならないんだ。今から少し出てくるよ。終わったらすぐに帰ってくるから、澪は寝てて。食べ物は買ってあるから」
 そう言って冷蔵庫を指差した。
「ほかになにか食べたいものがあるならメールしてくれれば、買って帰る」
 では彼は本当に、ここに帰ってくるつもりなのだ。
 その気持ちはとても嬉しいけれど……。
「圭一郎さん、私……」
 言わなくては、自分にはそこまでしてもらう価値がないのだと。
 ……でも。
「大丈夫だ」
 圭一郎が力強い声で澪の言葉を遮った。
 真っ直ぐな視線が自分を捉えている。ハッとして澪は口を噤んだ。
「大丈夫、俺がすべて解決する。君はなにも心配せずに、自分とお腹の子のことだけを考えて」
 もしかして、という思いが澪の頭に浮かぶ。
「じゃあ、行ってくる。鍵をしっかりかけるだぞ。誰かが来ても絶対に開けるなよ」
 そう言い残して、彼は鍵と携帯を手に家を出ていった。
 ベッドから下りて玄関の鍵をガチャリとかけて、そのまま澪は考え込む。
 圭一郎のさっきの言葉と、強い視線。
 もしかして、彼は……。
 その時、くーとお腹が鳴って澪は急に空腹を覚えた。そういえば最後になにかを口にしたのは、寝る前のゼリーだ。しかもその前もろくに食べていなかった。
 食べ物は買っておいたという圭一郎の言葉を思い出し、澪は台所の冷蔵庫を開ける。中を見て目を丸くした。
 単身者用の小さな冷蔵庫がゼリーでいっぱいだったからだ。おそらく、昨夜澪が柑橘系のゼリーだと食べやすいと言ったからこうなったのだろう。とはいえ驚くのは、どれとして同じ物はなく色々な種類の物がひとつづつ並んでいることである。
 柑橘系のゼリーといっても世の中にはたくさんある。どれを澪が食べたくなるかわからない彼は、コンビニやスーパーを梯子してなるべくたくさんの種類を集めてきてくれたのだ。本当ならコーヒー一杯だって秘書に淹れてもらう人なのに。
 コンビニのゼリーコーナーで難しい表情でゼリーを選ぶ圭一郎の姿が頭に浮かび、澪は思わず笑みを漏らす。
「ふふふ、こんなにたくさん……食べきれないよ。ふふふ」
 優くて、強い人。
『大丈夫』
 彼にそう言われただけでなんとかなるかもしれないと思えるから不思議だった。難しい問題はまだなにひとつ解決していないのに、彼の存在を感じただけで、澪に笑顔が戻った。
 そうだ、笑っていれば物事はいい方向へ進むはず。
 彼の子を宿したことは、澪にとっては奇跡のような幸運だ。妊娠がわかってからはじめて、澪は心からそう思った。
 この命を守り育てていくために、この子の幸せな未来のために、できることはなんでもしよう。
 強い気持ちが胸に戻るのを感じながら、澪はそう決意する。
 さしあたって今自分がするべきことは……。
「腹ごしらえね」
 呟いて、澪は一番大きな伊予柑ゼリーに手を伸ばした。
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