仮面夫婦のはずが、冷血御曹司の激愛で懐妊いたしました
調査報告書
 秘書の渡辺が内密で話があると言って、圭一郎のマンションを訪れたのは、見合いから二週間が経った土曜日のことだった。
「せっかくのお休みにお時間をいただきまして申し訳ありません」
 向坂自動車本社ビルとその周りに広がりる工場を一望できる高層階のリビングで、ソファに座る渡辺が申し訳なさそうにする。
 圭一郎は首を横に振った。
「いや、大丈夫だ。君のことだ、よほどのことなのだろう」
 今日の話の内容を圭一郎はまだまったく聞いていないが、彼個人のことではなく業務に関わることなのではないだろうかと予想していた。現在圭一郎は少々センシティブな問題を抱えている。
 渡辺が、深刻な表情で傍に置いた鞄から茶封筒を取り出して圭一郎に差し出した。受け取り、中の資料のタイトルを確認して、圭一郎はチラリと彼を見る。
「出過ぎたマネをいたしまして、申し訳ございません」
 渡辺が頭を下げた。
 圭一郎の見合い相手、坪井澪に関する調査報告書だ。
 圭一郎が彼女の調査を彼に指示した記憶はないから、彼が独断で行ったのだろう。とりあえずそれについては言及せずに、圭一郎は資料を読みはじめる。そしてその内容に、眉をひそめた。
 報告書によると、坪井澪は父親である坪井治彦の養子であり坪井家とは血の繋がりはない、とある。学水院に通っていたのは確かだが、本家への出入りは許されていなかった。当時の同級生の間では本家のひとり娘、坪井琴音との折り合いが非常に悪いというのは有名な話で、お世辞にも家族同然の付き合いをしているとはいえないとのことだった。
 見合いにあたって向坂家側が聞かされていたこととはまったく異なる事実だ。
「ゆゆしき問題です」
 渡辺が怒りを抑えられないといった様子で口を開いた。
「この件について顧問弁護士は、相手は元華族の家柄なのだから調査する必要などないとおっしゃいましたけど、肝心の見合いの日程が何度も伸びましたから、念のため僕が独断で調べました」
 少々慎重な性格の彼は、いつも圭一郎が抱える案件の裏付けや確認を怠らない。今回は業務ではなくプライベートの案件だ。本来ならスタンドプレーと言えるだろうが出てきた事実を考えれば、責めるわけにはいかなかった。
「本家のひとり娘、坪井琴音は行方不明か……」
 資料をめくりながら圭一郎が呟くと、渡辺が頷いた。
「おそらく、本来の見合い相手はこちらだったのでしょう。ですが坪井琴音にはもともと恋人がいたようで、逃げた。連れ戻そうと手を尽くしたが、見つからず苦肉の策で代役を立てたのだと思われます」
「代役、か」
 圭一郎は見合いの席での澪の様子を思い出していた。
『坪井澪です』と坪井康彦の隣で名乗った彼女は、青い顔でまったく表情がなかった。
 見合いの席だ、緊張していてあたりまえだと思っていたが、それだけではなかったのだ。ほとんど面識のなかった男と親子同然の親しい間柄であるフリをすることに不安を感じていたのだろう。
「この調査結果からすると、今回の件の前提が大きく揺るぎます。頭取と親子同然の親しい間柄である女性と副社長の縁談を条件に会長はこの件をお許しになられたのですから」
 可愛がっている娘を向坂家に嫁がせることで、もう二度と向坂自動車を裏切らないということを五菱は示した。それなのに、肝心のその娘が、血の繋がりがないどころか本家の出入りも許されていない者となれば、結婚自体の意味はなくなる。さらにいえばこのような大切なことで嘘をついている坪井頭取、ひいては五菱銀行自体信用できないことになる。
「今すぐに破談にするべきです!」
 少し興奮気味に渡辺が言う。
 圭一郎は資料をセンターテーブルに置いた。
「落ち着け、渡辺。結論を出すのは早すぎる」
「ですが、式は来月ですよ? 一刻の猶予もありません」
 見合いから二カ月足らずで結婚式など、本来ならあり得ないスケジュールだが、見合いの日程がずれ込んだためこうなった。見合いといっても成立ありきの顔合わせのようなものだから、式の準備は同時進行で進んでいたからだ。
「このタイミングで破談にすれば五菱との関係に影響が出るのは必至だ」
 それでは会社のためにならない。
「ですが!」
「べつに娘を人質に取るようなマネをしなくても、取引に影響はない。それを踏まえて私はこの件を進めたんだ。結婚はあくまでも会長を納得させるためのパフォーマンスにすぎない」
 圭一郎は感情論を抜きにして、理論的に状況を説明する。
「はじめから坪井澪を、ということならまだしも、当初は自分の娘をという予定だったのだろう? それなら相手も裏切ることは考えていないということだ。君の言う通り苦肉の策だったのだろう」
「ですが会長がお知りになったら……」
「確かに、それは厄介だな」
 圭一郎は考え込む。
 そこへ渡辺が畳み掛けた。
「それに和信(かずのぶ)常務の問題もあります。この件について向こうは相当嗅ぎ回っていますから、知られたらやはりこちらもただでは済まないでしょう」
 和信常務とは圭一郎の従兄弟にあたる向坂和信のことである。
 向坂自動車の経営陣は創業者一族出身の者と生え抜きの者半々であるが、代表取締役については、向坂家の血を引く人物がなるという慣例がある。
 今のところ圭一郎が父の後継者として会長すなわち祖父から認められているが、まだ正式に決定しているわけではない。一族の中には、圭一郎のポジションを虎視眈々と狙っている者もいて、その筆頭が向坂和信だ。
 同じ年の彼は、圭一郎の粗探しをするのを生き甲斐としているようなところがあって、いつも圭一郎の周辺を嗅ぎ回っている。澪の件を知られたら、ほら見たことか向坂自動車は五菱にコケにされた、それに気付かなかった圭一郎は後継者の資質がないと大喜びで騒ぐだろう。
 べつに圭一郎は後継者の座に固執しているわけではない。自分よりも会社のリーダーにふさわしい者がいて社員が望むならいつでも身を引いていいと思っている。
 でもそうではないから、この座を守っているのだ。
 少なくとも圭一郎の粗探しを生き甲斐とするような男には会社を任せるわけにはいかない。
「破談が無理なら式は延期されては? 頭取にこの結果を告げて娘を本気で探させるのです」
「恋人と逃げ回ってる女を見つけたとして、結婚もなにもないだろう」
「ですが身代わりの方の娘だって、信用できません。分家と言っても父親は銀行経営に関わっておらずごく普通の一般家庭のようですから、副社長のお相手としては……。玉の輿どころじゃないでしょう。身代わりを引き受けたのも、財産目あてかもしれません」
 興奮してやや暴走する渡辺の言葉に、圭一郎は眉を上げる。
「あ……、その……、出過ぎたことを言いまして申し訳ありません」
 渡辺が青ざめて謝罪した。その様子に、圭一郎は自分が無意識のうちに彼を睨んでしまっていたことに気がついた。
「……いや、謝る必要はない」
 首を横に振り、彼を安心させるように笑みを浮かべた。
「君の言うことはもっともだ。調査結果を持ってきてくれたことにも感謝するよ。やることは変わらなくても裏の事情があるのなら、耳に入れておく方がいいからね。……君のサポートにはいつも助けられている、ありがとう」
 重要な情報を掴んできてくれた彼を労う。でも彼はそれよりも別の部分が気にかかるようだった。
「ということは、破談も延期もしないのですね?」
 圭一郎は沈黙する。それで意図は伝わったようだ。
「……この件を社内ではほかに知る者は?」
 尋ねると彼は首を横に振る。
「僕だけです」
「ならそれでいい。このまま君の胸にしまっておいてくれ。絶対に誰にも漏らさないように。資料は私が預かっておく」
 そう結論づけると、釈然としない表情ではあるものの渡辺は頷いた。
 それから圭一郎は休日に来てくれたこと労い、帰っていく彼を見送った。そして再びソファに座り、資料を前に考え込んだ。
 報告書の内容には驚いたが、あの見合いの日のことを思い出せば納得のいくことも多かった。
 あの日、康彦の隣でうつむき加減に座っていた彼女を、美しいとは思ったが第一印象はそれだけだった。
 ほとんど言葉を発しない彼女を見つめながら、圭一郎は彼女が自分が想定していた見合い相手のどのタイプにあてはまるのか、あたりをつけていた。
 自由奔放なお嬢さまか、あるいは親の言いなりか。
 ほとんど会話に参加せず、ただ頷くのみの彼女に、圭一郎は後者だと判断して庭へと誘った。それならば、なるべく紳士的に接して物わかりのいい優しい夫を演じようと心に決めて。
 庭をふたりで歩きながら、圭一郎は彼女に質問を繰り返した。限られた時間の中でなるべくたくさんの情報を得る必要があったからだ。
 彼女はいったいなにを望む?
 なにを与えれば満足だ?
 うつむき加減ではあるものの、意外なくらい無駄なくはきはきと答える彼女に好感を持ったのは確かだが、やはりその時はそれだけだった。
 印象が変わったのは、唐突に彼女が圭一郎に質問をした時だ。
 この結婚をどう考えているのか。
 抵抗はないのか。
 いい年をして親のいいなりか?とでも言いたげな、挑戦的とも思える彼女の言葉に、圭一郎は自分が彼女を見誤っていたことを悟る。
 彼女は意思のない女性ではないどころか勝ち気なところがある。さらには結婚に反発心を抱いている。わざと挑発的な言葉を使って、見合いをぶち壊そうとしているのだろう。
 それならそれでやりようがあると、圭一郎は瞬時に頭を切り替える。少々強引に言い負かしてでも結婚に持ち込もう。だが方針転換をして聞き出した彼女の本音に、圭一郎は衝撃を受けた。
『私はこの結婚で幸せになりたいと思っています』
 彼女は圭一郎が予想していたどのタイプの女性でもなかったのだ。
 この結婚を自ら望んだわけでなくとも、嘆くことはせずに前を向いていたい。
 その意思をはっきりと示した彼女の真っ直ぐな視線と透き通るような声音、それから意思の強そうな瞳に、圭一郎は胸を撃ち抜かれたような心地がして、しばらく次の一手を出せなかった。
 あんな経験ははじめてだ。
 そしてそんな彼女を前にして、次に口を開いた時には思わず本音を口にしてしまっていた。この結婚はビジネスの一環だ、それ以上でもそれ以外でもないのだという、幸せになりたいと願う彼女にとっては酷な事実を。
 一瞬だけ残念そうに伏せた目の長いまつ毛、でもすぐにそれならば形だけの妻として役割は果たすと口にした聡明さが、圭一郎の中のなにかを刺激した。そしてなぜかはわからないのだが、自然と彼女の話に乗ってもいいという気分になったのだ。
 どちらにせよ、結婚することは決まっている。ならば、なるべく心の負担にならない方がいいに決まっている。彼女とならそれができるかもしれない。
 圭一郎は、報告書の表紙をめくり添付されている坪井澪の写真をジッと見つめた。普段の姿を隠し撮りしたのであろう写真の中の彼女は、普段着を着て自宅周りの生垣の手入れをしている。メイクもほとんどせず飾り気のないその姿は令嬢とはほど遠い。
『財産目当てかもしれません』
 渡辺の言葉が頭に浮かぶ。
 そうかもしれない。
 好印象を持ったのは事実だが圭一郎は彼女のことをまだほとんど知らない。たった一度話をしただけに過ぎないのだから。
 ライバルの和信に知られたらまずいのでは?という指摘ももっともだった。この件が一族の皆に知られたら、結婚相手に欺かれていた間抜けだと笑い者になるだろう。この件は自分にとってアキレス腱になりかねない。
 考えられる最善の策は、渡辺の言う通り、結婚を延期することだろう。
 秘密裏に坪井康彦にこの件を告げて死にものぐるいで琴音を連れ戻させる。会社間の関係がうまくいき、結婚がなくても祖父が納得するようになるまでは、結婚しているふりをすると強引にでも了承させる。
 あるいは、この件を材料に五菱からもっと有利な条件引き出して、それを理由に祖父を説得するか。
 いつもの圭一郎なら迷わずにその道を選んでいただろう。
 ——だが。
 圭一郎は資料を置いて、そのままその手をジッと見つめた。あの日、思わず差し出した圭一郎の手を、彼女はしっかりと掴んだ。
 あの感触が今もまだ残っている。
『よろしくお願いします』
 はっきりとした言葉と、真っ直ぐな視線。
『出会いがどうであれ、結果的に愛し合い幸せになれた夫婦も世の中にはたくさんいらっしゃいます。私たちがそうならないとは限らないでしょう?』
「幸せな夫婦、か……」
 圭一郎はそう呟いて、黒いソファに身を沈めた。
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