訳あり精霊と秘密の約束を~世話焼き聖獣も忘れずに~

5 清華の娘

 石造りの屋根を激しく雨が叩く音が響く。
「あなたは?」
 海音を引き剥がすようにして抱き上げてテーブルの上に置いたシルヴェストルを、葵は不審そうな目で見る。
「シルヴェストル・メディラ。この子の保護者だ」
 シルヴェストルは緑色の燐光を帯びたヘーゼルの瞳で、葵を正面から見据える。
「そちらは、確か(のぞみ)の娘……だな」
 ふっとその瞳が和らいだのを見て取って、海音は目を瞬かせた。
「間近で見るのは久しぶりだ。ずいぶんと大きくなったものだな」
 葵は海音を奪われたことに一瞬不満げな顔をしたが、すぐに商人の顔に戻って訊ねる。
「母をご存知で? 失礼ですが、どちらにお住いですか?」
「公国には先日着いたばかりだ。普段は旅をしている」
 シルヴェストルは淡々と話をしているが、窓の外の雨は激しさを失っていない。
(あれ? やっぱり天気とシヴ様の心は違うものなのかな)
 海音は首を傾げる。
「海音の保護者ということですが。どういう経緯がおありで?」
 葵が海音に手を伸ばすと、シルヴェストルはさりげなく海音の肩を掴んで引き寄せる。
「グロリアという娘にこの子を預かってほしいと言われてな。しばらく公国に定住するつもりでもあるので、引き受けることにした」
「なるほど」
 葵は一歩前へ進み出て海音の頭を撫でようとする。
「もちろん一時的なことですよね? また旅に出られる間までの」
「さて」
 くい、とシルヴェストルが海音の手首を掴んで一歩後ろに下がらせる。
「特に期限を決められたわけではないゆえ」
「少し込み入った話になりますが」
 葵はまたも海音に触れるのを邪魔された気がして、硬めの口調で切り出す。
「私、ヴェルグに滞在していた頃、海音にお使いをお願いしたり、一緒に食事に行っていたんです。そこにグロリアが来て、公国の……精霊の元に海音を連れていくと言っていたのですが」
 探るような目でシルヴェストルの顔を仰ぎ見る葵に、シルヴェストルは軽く笑い飛ばす。
「私が精霊に見えるのか?」
「分かりかねます。精霊にお会いしたことはないので」
「慎重な答えだ。商人らしく育ったな」
 シルヴェストルの言葉が子供扱いしているように聞こえたのだろう。葵は口の端を上げて愛想笑いを返した。
「ずいぶんお若いように見受けられますが、おいくつですか?」
「年を数える習慣はないのでな。忘れてしまった」
「三十は超えていませんよね?」
「想像に任せる」
 のらりくらりと葵の追及をかわして、シルヴェストルは話題を切り換えた。
「ところで、そなたを清華の娘と見込んで頼みがある」
「私にですか?」
「望は今公国を離れているだろう。この子についてだ」
 精霊は海音の肩を掴んで示しながら言った。
「海音を清華の学校に入れてはくれないか」
 海音は思わずシルヴェストルの顔を見上げた。あまりにも唐突で、彼の言葉の真意がまるで読めなかった。
「清華の学校は七歳からということは知っている。だがこの子は公用語を話すこともできない。早い内から言葉だけでも学ばせてやりたいのだ」
「言葉を……」
「費用は私が払う」
「し、シヴ様」
 海音はシルヴェストルの袖を引いてためらいがちに言う。
「そこまでして頂いては申し訳ないです。僕、自分で勉強しますから」
「何を言っている」
 シルヴェストルは海音を一瞥してそっけなく言葉を落とす。
「公国の庶民は清華の学校に通わせるのが習わし。私が行けと言ったら行くんだ」
「いえ、その」
 どう言えばいいのかわからず海音は言葉につまった。救いを求めるように葵を見ると、彼女は神妙な顔になって言う。
「学校に通わせることについてはお引受けいたしますが」
 あっさりと言葉を返してから、葵は重要な商談に臨むように緊張をまとって口を開く。
「清華にはそれに合わせて寄宿舎もございます。そちらに海音を預けられてはいかがですか?」
 シルヴェストルのヘーゼルの瞳がぐっと細くなる。
「学校は公国内にいくつかある。そのうちのどこかなら、私の滞在先から通えると思うのだが」
「あなたは海音の真の父ではない」
 葵は平静を装うようにゆっくりと告げる。
「そのような子どもは清華家が保護する決まりになっています。清華は奴隷売買を許さない一族ですから」
「私が海音を買ったとでも言うのか?」
「旅人は、時に資金繰りが苦しくなって持ち物を売ることもあるでしょう」
 ゴロゴロと窓の外で雷が鳴る音が聞こえてきた。海音は息を呑んで、ぎゅっと目を閉じる。
「心外だ。私が奴隷商人の類ではないことは、そなたの母君やグロリアに確認すればわかることなのだがな」
「私は自分の目で見たことしか信用しない主義ですので」
 雷が激しくなる前にテーブルの下に隠れたい。海音はそう強く思ったが、かろうじてその場で肩を抱いてこらえていた。
「……実の父だって、子を捨てることはあります」
 海音は雷の恐怖をこらえて、テーブルから降りるなり葵の前に立つ。
「シヴ様は僕を売ったりしません。無理に働かせたりすることもしません。……僕はそう信じてます」
 出会ってまだ数日しか経っていない。けれど、海音はいつもシルヴェストルを目で追っていて気付いたのだ。
「僕はシヴ様のところにいたいんです。シヴ様は、とても優しい方ですから」
 彼の不思議な碧玉の瞳は、公国の淡い空のように優しい。
「シヴ様が勉強しなさいって言われるなら、僕、精一杯頑張って公国の言葉を覚えます。葵さん、お願いできませんか?」
 もしかしたら、帰る場所のない寂しさが新しく出会った精霊への思いを強くしているのかもしれない。それでも、海音は構わないと思えた。
「……どうしてそこまで信頼してるのよ」
 ぼそりと葵は言う。
「私は母さんに、いっそあなたを養子にするよう頼もうと思ってたのに」
 沈着冷静な商人の仮面が崩れた葵に、海音は微笑む。
「そんなに考えて頂けたのは嬉しいです。でも僕には、公国での親になってくださる人がもういますから」
 海音がシルヴェストルを仰ぎ見ると、彼はぷいとそっぽを向いた。こちらも、先ほどまでの謎めいた旅人の雰囲気が崩れ始めていた。
「気が変わったらいつでも言いなさいよ」
 海音はぺこりと頭を下げた。雷の音は徐々に通り過ぎていったようだった。







 夜になって、箱庭で夕食を終えた海音は惶牙と向かい合って話をしていた。
「シヴ、今日は上機嫌になったり不機嫌になったりと忙しかったな」
「え、わかるの?」
「天気がころころ変わったからな」
 やれやれと首を竦めて、惶牙は呆れた顔をする。
「あいつはすぐ感情が天候に現れるんだよ。ったく、ガキなんだからよ」
「やっぱり天気と関係してたんだ……他の精霊様もそうなの?」
「まあな。あいつも普段は適当に調整してるんだが」
 惶牙は頷いて何気なく言う。
「だがあいつがオコサマなのは最近思い出したことだな。前は感情を殺してすべてを制御してた」
「前?」
 惶牙はふと表情から笑みを消す。
「前のマナトの頃の話だ」
「シヴ様、その頃は落ち着いていられたんだよね。大人の方だったの?」
「いや、むしろ……」
 惶牙は何か言おうとしたが、すぐに口を引き結んでしまう。
「悪い。ちょっと話しづらいんだ、前のマナトのことは。そのうちちゃんと教えるから勘弁してくれ」
「あ、うん」
 海音は素直に頷いて惶牙から目を逸らす。
(そうだよ。今いないってことは……もうお亡くなりになった人なんだ。思い出すのは、きっと辛いことだよね)
「お前が気にすることじゃない」
 沈んだ顔をする海音に、惶牙は明るく言う。
「それより、明日から言葉を習いに行くんだってな。場所は教えてもらったか?」
「うん。帰りにシヴ様が連れて行ってくださったよ」
「そうか。それにしても、学校なぁ……」
 惶牙は途端に憂えるようにため息をつく。
「いじめられないといいんだがな。なあ海音。意地悪されたらすぐに言えよ。俺が仕返ししに行ってやるから」
「駄目だよ、惶牙」
 海音は冗談だと思ってくすくすと笑ったが、惶牙の目は鈍く光っていた。
「……本気じゃないよね?」
 恐る恐る訊ねると、惶牙は少しだけ表情を緩める。
「お前が悲しむようなことはしねぇよ」
「そ、そっか」
「明日の飯は何にしようか。そろそろ肉が食いたくなってきたろ。うまそうな奴を狩ってきてやるからな」
 ゴロゴロと喉を鳴らして海音に擦りよる惶牙に、海音は腕を回して応える。
「惶牙が一緒だとよく眠れるからいいな」
「何だ? 眠れない頃でもあったのか?」
「うん……故郷にいた頃は、いつも緊張してた気がする」
 目を伏せる海音の頬をなめて、惶牙は優しく言った。
「ここにいれば絶対に安全だからな。好きなだけ寝て、起きたら遊んでいればいい」
「言葉を覚えたらお仕事しようと思ってるんだけどな」
「こらこら。子どもが何言ってる」
 惶牙がじゃれてきて、海音はくすぐったそうに首を竦める。
「お前はただ健やかにあればいい。ゆっくり時間をかけて大人になれ」
 昼間に買ってきた掛け布を海音にかけて、惶牙は眠るのを促す。
(気持ちいい……)
 ふかふかの毛皮に包まれて眠れる日が来るなど、海音は想像もしていなかった。
(こんな安らかな場所があったんだ)
 目を閉じていると、ほんの半歩先で誰かが屈みこむ気配がした。
 それは陽だまりの香りがして、じっと座っているようだ。海音が眠っていると思っているのか、起こさないように極力動かないようにしている。
(シヴ様だ。お帰りになったのかな)
 起きておかえりなさいを言おうかと思ったが、海音は惶牙に言われていたことを思い出す。
――目を閉じたまま気配を探ってみな。
 シルヴェストルはふいに手を海音の額に当てた。それは形を持った手ではなかったが、海音は額が包み込まれる感触にそれが手だと感じた。
 指先から何か温かいものが流れ込んでくる。それは次第に音楽になっていき、海音の耳の奥に静かに響き始めた。
(異国の言葉だ。公国の……子守歌かな)
 海音は視界が真っ白になっていくのを感じた。心地よい眠りの渦が、ゆったりと海音を飲み込んでいく。
(きっとこれは夢なんだ。幸せな夢……)
 叶うならこの夢が少しでも長く続いてくれるようにと、海音は強く願っていた。
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