空色綺譚


時は戻り。

照羽はその夜、何も起きなければ会社の部下、清瀬珠子(きよせ たまこ)と食事をしているはずだった。

珠子は二十六才の女子社員で、元気で明るく優しい、そして正義感が強い女性だ。
同僚や仲間を思うあまり突っ走ってしまうこともあるが、その素直さが照羽には眩しく羨ましいと思っていた。
ただ若いだけとは違う、人間味のある人間だと。

セミロングの髪、意思のある美しい瞳。
誰もが美人と認める女性である。

一回り以上年齢も違う娘に恋心を抱く自分が奇妙に思え、そんな気持ちを伝えることもなく時間が過ぎていった。

珠子も想いをしれば気分が悪いだろう。
だがそれは第三者から見れば、照羽が自分の物差しで勝手に計り、決めつけただけにすぎないのだが。

そんな珠子と照羽が食事をするに至ったのは、照羽が就業時間を終え帰宅途中に珠子と出会ったからだ。

「照羽課長!」

社の玄関を数メートル歩いたところで声をかけられ振り向くと、私服姿の珠子が立っていた。
革製のカバンを肩から下げている。

「こんばんは、お疲れさまです。照羽課長。……ちょうど退勤時間ですね」

腕時計に目を落とした後、再び上司を見つめ微笑する。
照羽は表情を崩さず歩きだすと、珠子が後を追いかけた。

「早く帰らないと、親御さんが心配するぞ」

照羽が云うと珠子は口を尖らせた。

「お父さんみたいなことを云いますね……ご心配なく、ひとり暮らしですよ。それより課長、一緒に夕飯を食べに行きませんか?」

照沼は立ち止まる。
珠子は嬉しそうだ。

「夕飯?」
「はい。会社のみんなと、お昼にたまに行く定食屋さんです。課長とはお昼時間が合わないから、いつか一緒に行きたいと思っていました」
「おれは社食ばかりだからな」

照羽が珠子に視線を落とすと、彼女は期待を込めた瞳で返答を待っている。
子犬のようなその表情に、自然に笑みが浮かぶ。

「行こうぜ。たまにはいいな」
「やった」

珠子も照羽は自動車通勤をしているが、珠子の車は車検に出しているため今日は電車で来たという。
代車を使わず、会社の近所まで買い物に来たということに照羽の頭に疑問符が浮かんだ。
慌てたように珠子が口を開く。

「友達の家がこの近くなので、あと駐車場がなかったので電車で来ました」

照羽は頷き、それ以上は追及しなかった。

周知の通り照羽は自動車通勤なので駐車場に向かう。
珠子を乗せて目的地まで行くことになった。

「課長と仕事以外で会うなんて、初めてですよね」
「そうだな。……いい機会だ、清瀬。話しておきたいことが……」

照羽の車は黒のスポーツセダンだが、その助手席を開けた時だ。

「!?」

助手席にひとりの女性が眠っていた。

「綾……!?」

照羽が思わず声をあげたのも無理はない。
その女性は照羽の幼馴染みであった女性であり、妻だった女性だからだ。

しかし、その女性はすでにこの世にはいない。

照羽もようやくその事実を受け入れ、前に進もうとしていた時の出来事だった。

「ごめんなさい、課長。女性がご一緒だったなんて知らずに……失礼します」

全く事情を全く知らない珠子は、照羽の顔を見ることなく走り去って行く。


───

場面は再び照羽の自宅へ戻る。

照羽は再びため息をついた。

「なぜ綾の姿になった?」
「あの車の大切な想い出とか、思いがあの形だったんだよ」

姿を真似た擬態もできるが、その思いも感じとり形にできるという。

「確かにあの車は綾と生前、購入したものだが……」
「でも今は清瀬が好きなんだろう? あのな照羽、奥さんも前進を……」

再び掌で叩き潰され、ぺちゃんこになった。

「ぷるぷるーっ!」
「寝るか」

叫びを無視し残りのビールを体内に流し込むと洗面を済ませ、そのまま眠ってしまった。

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