空色綺譚
照羽が出社すると、清瀬珠子が玄関に立っていた。
「おはようございます、照羽課長」
「清瀬。早いな」
「今日はシステム交換ですよね。何か手伝えないかと思いまして」
照羽は思いついたように頷き、立ち止まる。
「それは助かる。両手を出して」
「……? こうですか?」
突然のことに戸惑いながらも、珠子は両掌を上に向けて、差し出す。
確認した照羽はカバンの中から透明でゼリー状の物体をつまみ出すと、その掌に落とした。
カバンの中でヨダレを足らしすやすやと眠っていたスライムは突然のことに驚き、プルプルと体を震わせ抗議する。
「何すんだよ、照羽!」
「ひゃっ!? ……え、何ですかっ、これ!」
「やる。好きにしてくれ」
「ちょっ、課長! おもちゃ……じゃない! 生き物!?」
珠子の驚きと動揺を背に、照羽はさっさと行ってしまった。
一方で掌の上に置き去りにされたスライムは彼女を落ち着かせようと、必死に話しかける。
「驚かないで! あ、あのね、おれは……」
「しゃ、しゃべるの!? 新作のAIおもちゃ?」
まだ誰も出社していない更衣室にスライムと珠子は身を移し、出会いから昨夜のことまでスライムは必死に説明した。
珠子は訝しげに訊いていたが、最後は納得したようである。
「……じゃあ昨夜の女性は、課長の奥さまだった女性なのね」
スライム体を激しく上下させて肯定してみせた。
「うん。だから気にしないでね」
(照羽も清瀬が好きだからさ)
後半部分は音声にはしなかった。
人の事を潰したり好き勝手に振る舞う照羽への、ささやかな反抗である。
「わかった、ありがとう。えっと……スライムだから、スラちゃんって呼ぶね」
嬉そうに安堵している珠子に、スライムは頷く。
「いいよ。でもあのさ、清瀬は照羽の何がいいの?」
スライムは身を斜めにひねらせた。
無愛想で気難しい、そして人を物のように扱う照羽のどこに惹かれるのか、単純に不思議だった。
珠子は頬を僅かに赤くさせる。
「優しいところ。ぶっきらぼうに見えて、違うんだよね」
珠子が入社したある日のこと。
照羽がデスクに向かい、パソコンを画面を見つめ操作していた。
「照羽課長」
「清瀬か。早いな」
時間は就業、一時間前である。
「無理難題を押しつける上はいいが、管理する立場を考えてほしいぜ」
新人のデータ提出締め切りが昨夜までだったのだが、そのミスに照羽が気づき、早めに出社しそれを修正している最中であった。
「私も何か手伝います」
「助かる。では、この書類の資料を持ってきてくれ」
資料と照らし合わせてミス入力を改善し、事なきをえた。
その新人社員はこっぴどく叱られたが、照羽のおかげでその程度で済んだと云っててもいい。
「当たり前といえばそうなんだけれど。何気なくこなしちゃう姿が、格好いいなあって」
珠子はうっとりと語った。
「スラちゃん。課長は家では、どんなことをして過ごしてるの?」
珠子は目をキラキラと光らせている。
「何もしてないよ。昨日はお酒飲んで……寝てたし」
自分のせいで落ち込んで八つ当たりされて潰さた、とは珠子に云えなかった。
スライムはふと訊ねる。
「清瀬は昨夜、仕事は休みだったんだよな。会社にいたのは、もしかして……?」
「え? あ、えと……」
珠子は今度は顔を真っ赤にさせて、そっぽを向いた。
スライムは察して、楽しそうに躯を揺らす。
「やっぱり待ち伏せかあ。やるじゃん清瀬」
可愛いと思うと同時におかしなものだ、とも思う。
(照羽と清瀬は完全に両想いだよな。それなのに、なんでくっつかないんだろう)
空色で透明な躯をぷるぷると揺らしながら考えているスライムに、珠子が話しかける。
「課長が私にスラちゃんを預けたのも、優しさだよ」
照羽は明日から出張予定だという。
「ひとりにさせておけなかったからだと思うよ」
スライムは頷いたが、そこで気づいた。
照羽はわざと珠子を選んだのだ。
おそらく接点を持たせるために。
手離すこともできず、かといって抱きしめることもしない。
「結局、自己満の一方通行かよ」
スライムは身勝手な中年に呆れ、ボソッと漏らした。