愛のバランス
自宅に戻ったのは、日が変わる間際だった。
テーブルの上に置かれた離婚届と結婚指輪はそのままで、倫也はやはり帰っていなかった。

どこにいるのだろう。このままもう帰ってこないなんてことはないはずだ。
静かすぎる部屋が落ち着かず、麻里絵は見もしないテレビを付け、大きな溜め息を吐いて項垂れた。
倫也は今、何を思っているのだろうか。

ふと顔を上げて時計に目をやると、針はすでに深夜二時をまわっていた。
倫也はまだ起きているだろうか。
麻里絵はスマホの通話ボタンに触れた。
ほんの一瞬、ためらいが胸をよぎった。けれど、不安がその迷いを押しのけた。
待っていたかのように、一回のコールで繋がった。

『はい』

聞き慣れた倫也の声。けれどそのトーンは、どこか遠く、他人のようにも感じられた。

「倫君、起きてた?」

『うん、起きてたよ』

「夜に倫君がいないのって、会社の旅行の時くらいだったから、すごく寂しい」

『……うん』

沈黙のあと、短く返ってきた言葉。

「今日、寛人君に会って来たんだ」

また、少しの間をおいて。

『……うん』

「倫君に話したいことがあるから、戻ってきてほしい」

『わかった。朝戻るよ』

倫也の言葉は淡々としていて、心の温度を計ることができなかった。それでも、麻里絵はすがるように言った。

「待ってる」

『……うん。あっ!』

不意に倫也が声を上げた。

『戸締まり、ちゃんとして寝るんだよ』

思いも寄らない言葉に、胸をつかれた。
今にも消えそうだった灯りが、わずかに揺れながら、再び小さく灯ったようだった。

「――はい」

電話を切ると同時に涙が頬を伝った。

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