爪先からムスク、指先からフィトンチッド
「やあ、兵部さん、こんなところに居たんですかー。おや? 環さんもご一緒で。お邪魔だったかな? そろそろ閉会式の挨拶ですよ」
「あ、いや、ありがとう。今行くよ」
環は冷たい視線を涼介に送り、すっと会場へ入っていた。
後姿を見送り、涼介は薫樹に尋ねる。
「どうしたんですか? 兵部さん。なんか彼女とわけありなんですか? お二人やけに親密だなあ」
「そういうわけじゃないが」
「ふーん。まあ、しかし怖い女性ですねえ。にこりともしないし。あんな態度女性にとられたのは初めてですよ」
涼介は珍しく機嫌を悪くしている。
「元々アイスドールと呼ばれてたくらいだからね。でも、去年恋人を失くしたんだ。こんなところへ出てきてるだけでもすごいと思うよ」
「ああ、恋人を……」
同情を見せる涼介は気を取り直した様子で、会場へ戻ろうと薫樹を促した。


帰り際、環は「いつでも連絡して」と薫樹に名刺を渡した。『KIHI=貴妃』の香り付きで。
名刺の香りを嗅いでいると、涼介がまた薫樹を構う。
「兵部さん、そんなに彼女の匂いがいいんですか?」
「あ、ああ。久しぶりにハッとする香りなんだ」
「ふーん。芳香ちゃんよりもですか?」
「芳香……か。彼女はムスク(ジャコウ鹿)だが、環の体臭はシベット(ジャコウ猫)の香りがする。しかも香水と混ざって完成度を高めている。配合が少しつかめなかった」
「なんだかなあ。環さんに興味があるのか、匂いだけなのかはっきりしてくださいよ。芳香ちゃんが心配しますよ」
「ん? ああ。大丈夫。環自身に関心を寄せることはないと思う。――ふぅ、なんだか少し疲れた。今日はもう帰って休むよ。じゃ」
「はーい。お疲れ様でした」
環の出現が何かしら薫樹に揺らぎを与えている様子に涼介も何かしらの動揺を感じる。
「兵部さんに限ってなあ」
涼介から見ても、環と薫樹の関係は芳香と彼の関係以上の深さが感じられた。なぜか薫樹が環の方へ流れてしまわないように、芳香を支えたい気持ちが芽生えている
「あれ? おかしいな。兵部さんと環が上手くいけば占めたものじゃないか」
自分自身の感情に困惑する。涼介はいつの間にか薫樹と芳香のカップリング自体も好きになっているのだ。
とんちんかんな薫樹と芳香のやり取りはまるで漫才のようにも見える。
「ふー、なんか俺も色々忙しいんだけどなあ」
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