爪先からムスク、指先からフィトンチッド
「うーん、もうこの香り自体はほぼ完成しているんだ。これより上の完成っていうのは君が付けて初めてなすものだな」
「さすがね」
「今、何もつけていないのか」
「ええ」
「ちょと嗅いでもいいかな」
「どうぞ」
環は立ち上がり、すっと薫樹の前に立つ。
薫樹は頭の天辺から眉間、鼻筋、口元に鼻先を沿わせ、首筋、肩、胸元、腋へと移動する。
「ああ、これか」
納得した後、「環、そこに座って靴を脱いでくれ」と指示する。環は言われるまま、キャンバス地の小さなフラットシューズを脱ぎ素足を出す。
ムエット(試香紙)を嗅ぐように、爪先の匂いを嗅ぐ。
「やっぱり、君はシベット(ジャコウ猫)だな」
「ジャンもよく私の足の匂いを嗅いで調合してたわ」
「そうだろう。この香水は基本的にこのシベットの香りだ。それと君の上半身から感じられるクローブ(スパイス)の香りが混じって香水を完成させているようだ」
「そうなのね。ジャンは私の足しか嗅いだことがないからなのかしらね」
「ん? そうか」
恋人同士であれば全身の香りを嗅いだことがあるだろうと普通なら気づくのだろうが、薫樹はそのまま納得しただけだった。
そんな世間の一般的なことにまるで関心を寄せない薫樹に環は安心感を得る。
「じゃあ、用事はそれだけなの。帰るわ」
「おかげですっきりした」
「そうそう、その『KIHI=貴妃』は薫樹が手を加えたらもう『KIHI=貴妃』じゃないから『KOMACHI=小町』になるならそうして」
「うーん。なかなか難しいな。元がジャンの作品だけにな」
「ふふ、じゃ、よく考えて。私はもう渡したから。――じゃ」
環は随分と軽くなった足取りで去って行く。ふと薫樹は彼女の雰囲気が変わったような印象を受けていた。

16 涼介のミントガーデン

グランデホテルへ環を迎えに行く。
グリーンのオフロード車をホテルの前に着けると環はいつもの白いシャツにワイドパンツそして小さなスニーカーを履いて現れた。ドアマンが環を車のドアを開き、恭しく、しかし親しみを込めて「行ってらっしゃいませ」とドアを閉める。
環も「明日帰るわ」と笑ってドアマンに返す。
「ご機嫌いかがかな?」
「うん。いいわ」
「よかった」
険が取れたような環の様子に涼介も優しい気持ちになる。
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