魔法使いは透明人間になりたい


 飲み物を変えることを口実に席を立つ。佑の元からカップを取って、眉間を揉みながらカウンターに向かう。
 思っていた話とはだいぶ違う。頭痛がしてくるような心地だった。

「楽しそうね」

 カウンターに向かうと、平井さんは楽しそうにニコニコとしていた。こちらは全く楽しくないというのに。

「別に全然……」
 
 平井さんがカップにソイミルクを注ぎ、抽出したコーヒーをゆっくりと流し入れるさまをぼんやりと眺めた。
 ……でも、いまの状況は少し楽しいのかもしれない。世界から佑はいなくなった。でも、いま佑は目の前にいる。魔法使いがどうの言っているけど、たしかに佑なのだ。

 だったらどうして、佑の存在をわたししか知らないような世界になってしまったのだろう。
 魔法使いとあの話には、なにが関係しているんだろう。
 
「難しい顔してるよ、大丈夫?」
「……はい。ありがとうございます」
 
 平井さんから新しく淹れたソイラテを受け取って、席に向かう。佑はなにもせず、ただじっとわたしのことを待っていた。
 
「どうぞ」
「お金払います」
「大丈夫です。社員というか、バイトは飲み放題なので」
「ほんとに?」
 
 お金なんて本当にどうでもよかった。金銭が発生したとしても、もらうつもりは毛頭なかった。
 それよりも、わたしは話の続きを聞きたかった。
 どうして、こうなったのか。
 魔法使いとは、どういうことなのか。

「それで、お話の方……」
「あ、はい。……じゃあ、見せた方が早いですよね」
 
 佑は独りごちると、根元にシルバーのリングがはめてある右手の人差し指を立てた。それから、指先を円を描くように振った。
 
 その動きは、見たことがあった。
 それは、春のツアーでわたしが作ったうちわの『魔法をかけて』に応えてくれたときと、同じ動きだった。

 まさか、佑は本当に魔法をかけていたの?
 と、呑気に思ったその瞬間、周りからすべての音が消えた。洒落たジャズのBGMも、お客さんのおしゃべりも、食器の音もなにもかも。
 
「はい」
「はい?」
「いま、時間を止めました」
「ーーは?」
 
 見て、と左手首のスマートウォッチを見せてくる。言われた通りにじっと見ていると、微かに違和感を感じた。ーー秒針が、全く動いていない。
 
「うそっ!」
 
 自分のスマホを出して、ホーム画面に出している時計のウィジェットを見た。やっぱり秒針はちっとも動いていない。身体中の血という血が、下に下がっていくような感覚がした。
 
「俺は、たしかにきみの言う通り、Merakの松永佑です。……でした」
 
 ズキンと胸が痛んだ。
 過去形で、わざわざ言い直した。そのことにショックだった。

「過去形なのは、もうグループを脱退して、芸能界も引退したからです」
「それは、知ってる。……でも、なんでわたししか、あなたのことを知らないんですか」
「俺はね、ずっと透明人間になりたかった」
 
 間髪入れず、迷いなく、佑は言い切った。
 わたしの質問に答えるつもりはないらしい。
 
「事務所に入ってからずっと、俺は”松永佑”だった。だか
らごく普通の人みたいに、何者でもないただの人間として、ひっそりと生きたくなったんです」
 
 そう言うと、佑はソイラテを飲んだ。
 何者かになりたくて必死に努力してきた人が、『何者でもないただの人間』になりたかった。なんて皮肉だろうか。

 佑の顔を見ていられなくて、わたしは目を逸らした。カフェのなかは相変わらず時間が止まっていて、わたしたち以外の人たちは動作を途中で止めている。

 佑は中学生のころに事務所に入って、そこから必死に取り組んできた。高校3年生のころにメジャーデビューして、それから3年弱、ずっとアイドル界の最前線でやってきた。
 
 だからこそ、そう思うんだろう。カップを包み込むように持って、ソイラテを飲んだ。
 少し、傷ついた。……いや、少しどころではない。

お門違いだとはわかってはいる。わかってはいるけれど、佑が”松永佑”でいることに苦痛を感じていることが、ショックだった。

「みんなが俺のことを知らない理由。それは、俺がさっきのように魔法をかけたから」
「魔法……」
 
 信じられるわけがなかった。でもいま身を持って体験しているのだから、信じるしかなかった。この状況のことも、時間を止めたことも。
 
「引退するって決めたのに、どうして魔法をかけたんですか」
「みんなが、傷つくから。だったらいっそのこと、”松永佑”という存在自体消した方が、都合が良かった」

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