誰もいないこの世界で、君だけがここにいた
「ありがとう、今まで一緒にいてくれて。最後にもう一度お礼が言いたくて、電話に出たの」

 植村くんの返事はなかった。
 絶句しているのか、それとも私の言葉を一言も聞き漏らさないようにと耳をすませてくれているのか。
 スマホ越しだけれど、そこにいる植村くんの空気を感じながら、噛み締めるように口を開いた。

「ずっと、勇気が出なかった。いろんなことに立ち向かえなかった。でも、私……向き合ってみるよ。怖いけど、植村くんが教えてくれたから。いじめも、呪いも、たしかに……乗り越える道はあるのかもしれないよね」

 自分で言っていても半信半疑ではあるけれど、今後の自分を奮い立たせるためにもそう言った。

「ありがとう。うれしかった。あの日、ホームで私を見つけてくれて。私と一緒に、戦おうとして、くれて……」

 だんだんと語尾が小さくなっていくけれど、ギリギリ気持ちは伝えられたと思う。
 多田さんたちと偶然会ってしまった日曜日。
 植村くんは、去っていこうとする多田さんを引き止めて、私を戦いの舞台へと引き上げてくれた。
 自分が一緒についているから。言いたいことを言え、と言ってくれた。
 人の困難に対して、横に並んで一緒に戦おうとしてくれる人は少ない。私を助けてくれた佐倉さんだって、多田さんを怖がっていた。
 それをひどいことだとは思わないし、私自身も誰かのトラブルに巻き込まれそうになったら逃げてしまうと思う。
 植村くんなんて、次に事件を起こしたらそれこそどうかるかわからない立場なのに。
 それでも、私の横に立ってくれて。
 逃げたあとも、私の横にずっと寄り添ってくれた。
 あと十五分で消えてしまう、記憶。それでも伝えたかった。
 こんな私と一緒にいてくれて、ありがとう。
 ずっと励ましていてくれて、ありがとう。
 そして……ごめんなさい。
 電波を超えて、静寂が二人の身を包む。
 でもそれは一瞬のことで、すぐに電話の向こうで、はぁ、とため息が聞こえた。
 諦めの、ため息。
 ……かと思ったけれど、違った。

「……戦えなんて、言ってない」

 それは、呆れ、のため息だった。
 前も言ったけど、と植村くんが呟く。
 また少しの間を置くと、植村くんは先ほどの焦りをどこかに置いて、冷静に説明し出した。

「そうじゃないから。別に、戦いたくなければ戦わなくていいから。勘違いすんな。逃げたい時は、逃げたらいいだろ」

 ……逃げる?
 植村くんから逃げる、という単語が出てきて、意外な感じがした。
 喧嘩っ早くて、今までいろいろな人を敵に回してきたらしい植村くん。すぐにでもゴングを鳴らせるように、常に頭の中でバチを構えていたであろう植村くん。
 でも、そういえばはじめて会った日、戦えなんて言ってない、と言われた気がする。
 過去の記憶を手繰り寄せていると、前に言っていたあの単語も思い出した。

「……逃避行……」

 そう、と声がした。

「……俺、さ。多田って女たちと会ってお前が逃げた後、後ろの男たちにボッコボコにされて。しばらく耐えてたんだけど、あーこれ、骨とかやべーことになるやつだなって感じた瞬間、走って逃げたんだよ。後ろからダサッ、逃げたー、とか言われてさ。最高にカッコ悪いだろ」

 パーカーの奥に見えたアザを思い出す。
 見えるところについていた傷は、左顎の一箇所だけ。でも、顎と腕以外にも、胸やお腹にはたくさんのアザがあったのかもしれない。
 そうなってでも、植村くんは一度も手を出さなかった。
 戦いの舞台に上がることはなかった。
 少しの間を置いて、俺は強くなんかないよ、と植村くんが呟いた。

「あの後、俺、お前のこと白状なやつって言ったけどさ。別に逃げたことに怒ってたんじゃないんだ。逃げるなら、俺も連れてけよって、思っただけで……。まぁ、つい、けしかけた俺が悪かったけど……」

 バツが悪いのか、私と同じように段々と語尾が小さくなる。
 そして少しして、気を取り直したように話を再開した。

「……逃げてもいいんだ。でも、幸せになることからは逃げんなよ。みんながお前のことを忘れて、もし呪いも解けなかったら、これから一人でどうやって幸せになるんだよ」

 不意に目頭が痛んで、体を屈ませた。
 息が苦しくなる。やさしい言葉に慣れてない。そんなこと、最後の最後に言わなくていいのに。

 ——いいの?
 逃げても、いいの?

「逃避行、俺がいつでもついてってやるから」

 うん、と言いたいのに声が出なかった。
 何度頷いても、言葉にしないと電話では伝わらない。

「駅で、待ってるから」

 もう間に合わないって言ってるのに。
 わかってるはずなのに。
 時計の長針がカチリ、と音をたてる。
 私は静かに、通話を切った。


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