大好きな人とお別れしたのは、冬の朝でした


あの冬の朝。
泣きながら救急病院から帰ったあと、詩織は東京から離れることを決めた。
なにが正しくてなにが間違っているのか、判断するのは難しい精神状態だった。
瞬と彩絵の近くにいるのは辛かったし、両親からは病院を継ぐために結婚をせかされるのは目に見えていた。

なんとなく浮かんだのは、以前リハビリを担当した陸上選手の高木麻耶だった。
『九州に住んでいるおじいちゃん』
麻耶から聞いた土地は、阿蘇山の麓にある温泉地だったはずだ。
たしか、雄大な自然を見たらイヤなことは忘れると言っていた。

詩織は知らない土地を目指すことにして、まず近藤病院の事務長に辞表を手渡した。

「本来なら三カ月前に申し出なくてはいけないんでしょうが、申し訳ありません。色々あって……」

詩織の言う『色々』というのを、彩絵のことだと事務長は勘違いしたようだ。

「大変ですからねえ。事情が事情ですから、落ち着いたら復帰してください」
「お世話になりました」

事務長も瞬の事故以来、病院まで尋ねてくるマスコミの応対に追われていた。
連日業務以外で忙しく、詩織が辞めることなど些細なことだったのだろう。
事務長は院長夫妻は納得していると思い込んでいたのか、あっさりと受け取ってくれたので助かった。
両親は、急に彩絵が注目されていたから詩織まで気が回っていないらしい。
このところ連絡もないし顔を合わせてもいないから、詩織は誰にも注目されることなく近藤病院を去ることが出来た。

T・ケアの高橋恭介には一身上の都合で仕事を辞めさせてほしいとお願いした。
依頼があれば受けるフリーとしての勤務状態だったが、挨拶だけはキチンとしておきたかったのだ。

高橋恭介はあまりにも憔悴した詩織を見て、驚いた顔を見せた。
残念だといいながらも、深くは事情を尋ねてはこなかった。それも彼の優しさだろう。



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