結婚契約書に延長の条文はありませんが~御曹司は契約妻を引き留めたい~
電車が来たから、また後でと言って香津美は電話を切った。

「何かトラブル?」
「いえ、大丈夫です」

心配されたが本当に大丈夫だからと何度も言うと、大原は半信半疑ながら反対方向の電車が来たため、そこで別れた。

また彼から掛かってきたら困ると電車に乗るとすぐに電源を切ってしまった。

やましいところはないのに、何故か後ろめたい気持ちになる。
しかしよくよく考えれば、可奈子の結婚式の話は篝には関係ないのだし、彼とは便宜上三年間の結婚をするだけなのだ。
何を後ろめたく思うことがなるのだと思い直し、アパートへ帰り電源を切ったままさっとお風呂に入った。

お風呂から上がると、玄関のチャイムが鳴った。

「え?」

時計を見ると時刻は午後十一時。まさかと思い、固まっているともう一度チャイムが鳴って、「香津美さん」と篝の声がした。

「え、な、なんで?」

この前送ってもらったから、彼がこのアパートを知っているのはわかる。でもまた電話すると言って切ったままだったけど、彼が訪ねてくるとは思わなかった。

「香津美さん、いるんですよね。出てきてください」

ドンドンとドアを叩かれ、慌ててドアを開けた。

「ちょっと、篝さん、こんな時間にドアを叩かないでくださいよ」

チェーンは掛けたままドアを開いて彼に言う。

「だったらさっさと開けてくれ」
「な、なんで?」
「今日の昼間の続きだ」
「続き?」

何か言い残したことでもあったかと考える。

「いいからここを開けてくれ。目立ちたくないだろ」

どうやら素直に帰ってはくれなさそうだ。少し躊躇った後、彼を招き入れた。

「どうぞ、狭いですけど」

彼のマンションの玄関にも及ばないだろう、広さのワンルーム。そこに高級ブランドのスーツに身を包んだ篝が立っている。

「どうぞ」

加奈子が来た時にいつも出しているクッション兼座布団は、ハワイ土産のハイビスカス柄だった。

「入浴中だったのか」

ピンクに白い水玉柄の、半袖短パン姿の香津美を一瞥する。

「それで、昼間の続きって?」

明日も休みだが、とにかく早く用件を済ませて帰って貰おうと香津美が切り出した。

「すまないが、水でもいいので何かもらえるかな?」

よく見れば篝はうっすらと汗をかいている。夜とは言え、まだまだ蒸し暑い。

「はいどうぞ」

冷やした麦茶を渡すと、篝はそれを一気に飲みきった。顎を上げてゴクゴクと飲む喉元に思わず見入った。

飲み終わって顔をこちらに向けたので、香津美はすいっと顔を背けた。

(やだ、どこ見てるのよ)

香津美の動揺をよそに、篝はグラスを流しに置くと、ふうっとネクタイを緩めた。
一番上のボタンを外すと、彼女の顔を見つめて詰め寄った。

「男と、一緒だったのか? 両家顔合わせの日だぞ」
「ぐ、偶然会ったの。それで今度二次会に使う候補の店に行こうってなって。この前、あなたの実家に行くことになって、ドタキャンしたから、悪いと…」
「二次会の? 例の男か」

『例の男』という言い方が気になった。

「それどういう意味? 私のプライベート全てに口を出す権利はあなたにないわ。そもそも私達はそんな関係じゃないでしょ」
「そんな関係?」
「そうよ、正式に結婚したわけではないし、たとえしたとしても、婚姻関係にある限り私は不貞など働きません。信用出来ませんか?」
「君は男慣れしていない。君がそうでも男がそうとは、限らないんだぞ」

それを聞いて、意味ありげな大原の言葉を思い出す。

「その顔、何か心当たりでも?」
「べ、別に…」
「言っておくが、たとえ期間限定でも、俺は誰かと君を共有する気はない」
「わ、わかっているわよ。私だってそんな器用じゃないもの」

篝のことだけで手一杯になっているのに、他の男性(ひと)まで相手をしている余裕はない。

「聞きたかったのがそう言うとことなら、もういいですか?」

話はこれで終わりかと思い、篝が使ったコップを洗おうと流しの前に立った。

「いいえ、本題はこれからです」

後ろから抱きすくめられ、耳に息が吹きかけられた。
ガチャン。洗剤で手が滑り、洗っていたコップが流しに落ちて割れた。

「か、篝さ…」
「黙って」

後ろから手を伸ばして水を止めると、篝はその手をゆっくりと香津美の手に這わせる。

「お風呂上がり…いい香りがするね」

心臓が恐ろしいくらい激しく打つ。
背中越しに密着する篝の硬い体に、そっと引き寄せられた。
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