結婚契約書に延長の条文はありませんが~御曹司は契約妻を引き留めたい~
和海は朝はいつも食べず、コーヒーだけを飲んで出社する。
反対に香津美は朝はしっかり食べる方だった。
ホットサンドメーカーで作ったハムチーズサンドにヨーグルト、トマトとキュウリと千切りキャベツのサラダの朝食を取っていると、和海が起きてきた。

本当は朝ご飯を何でも良いから食べた方がいいと言いたかったが、彼も長年そうしてきたルーティーンがあるのだから、いずれ夫婦でなくなる香津美が、今更それを変えさせる必要も無い。
どうしても嫌だと思うこと以外は、お互いの領域に踏み込むのは良くない。
ずっと花純たち親子と一緒に過ごしてきた香津美は、言っても変えられないことを言うのは無駄だと思う癖がついていた。

「おはよう、夕べは遅かったのね」

言ってから、責めた言い方に聞こえなかっただろうかと不安になった。
別に遊んでいたわけではない。仕事だったのだから遅くなったからと責めることはない。

「パーティーの後、取引先の何人かとクラブへ行っていた」
「そう、お仕事大変だろうけど、無理しないでね。秘書の方も一緒に?」

こんなことを言うつもりはなかったのに、なぜか聞いてしまった。

「大原君? いや、そこまでは付き合わすのは悪いから、パーティーの後は帰らせた。それが何か?」
「いえ、そうだったら大変な仕事だなと…」
「君こそ、俺の仕事に付き合わせて済まない」
「え、いいのよ。それくらい」
「そうか」
「コーヒー、飲むよね」
「ああ、いただこう」

朝食はいつも対面キッチンにあるテーブルの、背の高いスツールに座って食べている。
魔法瓶のコーヒーメーカーから彼のマグにコーヒーを注いで、隣に座る和美の前に置いた。

「いつも朝から手の込んだものを食べているね」

コーヒーをひとくち飲んでから、香津美の食べているものを彼が覗き込んだ。

「別にそれほど時間はかからないわ。お昼は大学の食堂で食べるから、お弁当をつくらなくていいし、これくらいはしないと」
「それ、ちょっともらっていい?」
「いいけど、作りましょうか?」
「そこまではいいよ」
「そう、じゃあこれ」

自分が食べる分を持って、お皿に乗った半分を和海に渡した。

それからほんの少しだが、和海も朝はコーヒー以外に口にするようになった。

厚焼き卵のサンドイッチや、チーズとハムのおにぎり、ピザトースト、具たくさんスープと言った朝食をほぼ毎日一緒に食べるようになった。
夜は帰りが遅く、会食の機会も多いため、和海が香津美と一緒に食事をするのは朝食が殆どだった。

香津美には和海が初めての相手で、ずっと彼しか知らない。結婚してから幾度か彼に抱かれ、体はすでに彼に馴染んでしまっている。

彼と別れて、その後はどうするか。最初はお金をもらって好きなことをしようと思っていたが、彼との生活が意外に心地よく、すぐに新しい生活に切り替えられるか自信がなかった。

(きっと彼はすぐに私のことなど忘れるのだろうな)

和海が結婚を考え始めた時、たまたま見合い相手が香津美で、意外にも香津美のことは好みだった。
だから結婚した。
でも、彼が自分に惚れ込んで別れたくないと思ってくれると考えるほど、自分に自信はない。

和海の祖父母のところには、和海が出張でいない時によく泊まりに来なさいと誘われたりしていた。
そんな時、和海が今の地位になってからどれほど感張っているか、功績を上げているかをよく聞かされた。

「七光りとか、えこ贔屓とか、そんな言葉、和海の努力と成果を知っていれば、誰も口にしない」
「すごいんですね。和海さん。誇らしいです」
「それもこれも、香津美さんという素敵な奥さんが出来たからよ」
「そんなことありません。誰が妻になっても、和海さんならきっと今みたいに活躍したと思います」

香津美は和海の仕事に何のプラスにもなっていない。それどころか、叔父の経営するリアルエステート来瀬にも便宜を図ってくれていて、こちらが得をしても和海には何ら得になっていないのではないかと思っている。

「香津美さんって奥ゆかしいのね。Kagariホールディングスの専務取締役夫人になったら、もっと威張ってもいいのよ」
「威張るなんて、私はしがない大学の事務職ですし、本当にそんな私を和海さんの妻として認めてもらえただけで有りがたいと思っています」

そう香津美が言うと、二人は困ったように顔を見合わせた。
彼らは最初から離婚が決まっていることを知らないのだから、淡白過ぎる香津美の言い分を変に思うのはわかっている。
実際、和海との結婚生活は意外なほど穏やかで、満ち足りていた。
でも、これ以上の関係を望もうと欲を出すと、きっと和海は彼女を遠ざけてしまうだろう。
彼に対する想いは胸の奥に仕舞い込み、彼が望むべき時に笑顔で別れる。
それが香津美が果たさなければならない役割だ。
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