結婚契約書に延長の条文はありませんが~御曹司は契約妻を引き留めたい~
『香津美が私の振りしてお見合いして、向こうから断るように仕向けてよ』

花純にそう言われていたことを思い出し、遅れたことを責めるか、怒って帰ってしまえば断る口実もできたのにと思い至った。

「どうしました?」
「あ、いえ・・」

今更どちらもできない。失敗したと思った表情が顔に浮かんだのだろう。彼が怪訝そうな顔をした。
香津美は人が良すぎる。いやなら断ることも覚えないと。
可奈子にいつも言われていた言葉を思い出す。本当にそうだと思うが、身についてしまった習性はそう簡単に変えられない。

「改めて、かがり かずみです」

そんな香津美の思考を遮り、彼がさっと名刺を差し出してきた。
名刺には「Kagari ホールディングス 常務取締役 篝 和海」
と書かれていた。
常務取締役と聞くともっと年配の人を想像していたが、会社に自分の名前が掲げられているということは、経営者の一族なのだろう。

「和海さん。こんな字を書かれるのですね」
「ええ。女性に間違われることもありますが。そういうかつみさんはどのような字を書かれるのですか?」
「あ、すみません。私、名刺がなくて」

何かあったかと思い、財布から健康保険証を取り出して篝に見せた。

「香津美さん。私たち名前の雰囲気が似ていますね」

保険証の字を見て、篝がにこりと微笑みながらそれ香津美に返した。

「そうですね」

花純とも似ているので、よく間違われたことは関係ないか。

「大学にお勤めなんですか?」

保険証に事業者名として大学の名称が刻まれていたのも目にしたのだろう。抜け目がないなと思ったが、香津美でもよく知る大企業の取締役なのだから、それくらい出来て当たり前か。縁故採用かもしれないが、ある程度の実力がなければ株主など黙っていないだろう。

「ええ、母校なんです。恩師が推薦してくれて試験を受けました」
「そうですか」

初対面だからなのもあるが、その言葉に含まれる彼の感情がまったく読めない。おそらくは興味が無いのだろう。
そう言えば、花純は父親に半ば脅されて見合いを強行されたようだが、彼はどういう意図でこのお見合いにやってきたのだろう。
真剣に結婚を考えているなら申し訳ない。何しろ見合い相手は代理なのだ。

「あの、篝さ」
「少し遅くなりましたが、店を予約しているんです。今から行きましょう」
「え、あの・・」

机の上にあった香津美の飲んだ紅茶の伝票をさっと持って、彼は足早に歩きだした。
慌てて荷物を鞄に放り込み、足が長くて動きに隙の無い動作でさっさと歩いて行く、篝の広い背中を追いかけた。

「あ、あの、私が飲んだものですから自分で」
「遅れたお詫びです」

場所代もあるのか紅茶は軽く税込みで千円近くした。千円札を一枚取り出し、釣りはいいからと言って出口へ向かう。

「あの、篝さん」
「乗って」

ホテルの玄関を出ると、そこには国産ながら高級な車が停まっていて、彼は助手席のドアを開けた。

「あの、私・・」

ここで断って帰るだけだと思っていたのに、一体どこへ連れて行かれるのだろう。

「先方には無理を言って時間をずらして待ってもらっているので、早く行きましょう」

遅れたのは自分のせいなのに、香津美のせいで遅れているように聞こえる。

「ここにいつまでも停めておけないので、乗ってください」

有無を言わせない口調。経営者とは皆こうなのだろうか。後ろから別の車が来て待機している。
仕方なく香津美は座席に滑り込んだ。
ドアを閉じて運転席に回り、篝はエンジンを掛けた。

「あの」
「和食は好き?」
「え・・あ・・はい」
「なら良かった」

そう言うと篝はまたもやにっこりと微笑み車をスタートさせた。

「あの、篝さん、私、実は来瀬香津美と言って」
「それはさっき自己紹介したから知っています」

ちらり前を向いたまま視線だけを少しこちらに動かし、「そこまで馬鹿じゃない」と言う。

「あの、そうではなくて、あなたが元々お見合いする予定だったのは来瀬花純と言って、私のいとこなんです」

人違いだと告げて車を停めてもらおうと正直に言った。

「良かった」
「え、何が?」

ちょうど信号が赤になり、前の車と車間距離を取って篝は香津美の方に顔を向けた。

「見合い相手はリアルエステート来瀬の社長令嬢の来瀬花純さんだと聞いていたのに、あなたが香津美だと言うから、私が聞き間違えたのだと思いました」

疑問が解決してすっきりした顔を見せる。

「あの、花純は実は・・」
「私との見合いに乗り気ではなかった。ですよね?」
「あ、はい」

そうはっきり言われてしまえば身も蓋もないが、これで彼の誤解は解けたのだし、香津美の役目は終わったとほっとした。

「すみません、あなたがどうとかではなく、本人には今つきあっている相手がいて」
「私は、あなたでもいいですよ」
「え?」

信じられない言葉を聞いて、香津美の表情が固まった。
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